第9章 詰め込みと跳躍
原文:
ポツポツと、顔に何かが当たった。
顔を手で拭ってみると濡れていたので、雨が降ってきたのだとわかった。
家まではまだまだ距離があった。すっかり仕事でくたびれていたから、私はできるだけ走りたくはなかったが、その想いに反して徐々に雨脚は強まってきていた。結局のところ、私は全力疾走でマンションのエントランスに駆け込むはめになった。
私は荒い息をさせながら白いハンカチを取り出すと、濡れた髪をかきあげて、顔の水滴を拭いた。背中にまで雨水が入り込んで気持ちが悪かった。ふと、ハンカチを見ると赤く染まっていた。
私は指先をそっと自分の鼻の下に持って行った。指先にも赤いものがついた。
どうやら急に走ったために、顔に血がのぼって鼻血がでたらしかった。血は止まっているらしかったので、残りの血をハンカチで拭きとって、エレベーターで自分の部屋に向かった。
自分の部屋の中に入って、「ただいま」と私が言うと、誰もいないはずのリビングの方から、「おかえり」と返事があった。
リビングでは、新井さんが座ってテレビを見ていた。
「もう来ないでって言ったよね」私は舌打ちをして、「なんなのもう、本当にあり得ない」と吐き捨てるように言った。
「だって、寂しかったんだよ」と言って、新井さんはテレビを消すと、こちらに向き直った。
「合鍵、まだ返してもらってなかったね。そこに置いといて」
私がそう言うと、新井さんはへらへらしながら、「どこにいったかなぁ」なんて言いながらポケットの中をあさっていた。
新井さんのやることなすことすべてが、私の興を冷めさせた。本当は傷つきながら軽薄を装う彼女の仕草が、私には気持ち悪いとしか感じられなかった。
私は相手に背を向けて座ると、ぐしょぐしょになった自分の髪をバスタオルで拭きはじめた。
「こっちを見て話しをしようよ」と、新井さんが後ろで言った。
私が答えないでいると、新井さんは何を考えたのか、後ろから抱きついて、私の頭を抱え込んだ。そうすると、彼女の方がずいぶん背は高いので、私が彼女の顔を真正面から見上げる形になった。
「どうして無視するの」新井さんがそう言っても、私が何も答えないでいると、「もう死んでやる」と言って、彼女は小型のナイフを取り出して自分の首筋にあてがった。
本当に仕方のない、つまらないやつだと思った。見ていたくもなかった。
私は、実際に目をつぶった。
新井さんは、ちょっと尋常じゃない様子でしゃくりあげ嗚咽した。
私の顔に、ポツポツと、たいへんな量の暖かい液体が降り注いだ。その液体は、私の頬をつたって、口の端から口内に入り込んだ。
それは少ししょっぱかった。これは涙であろうか、血潮であろうか。私は目を開けられないでいた。
回答:
ポツポツと、水滴が顔にあたった。
疲れきっていたがマンションまで走らざるを得なかった。屋根のあるところにたどり着いてひと息つくと、鉄の臭いが鼻をついた。指先を鼻下に持って行くと赤くなった。
自分の部屋に入ると何か違和感を覚えた。誰もいないはずのリビングから明かりが漏れていたからだ。
「おかえり」リビングでは新井さんがテレビを見ていた。
「もう二度と来ないで、合鍵も返して」私は吐き捨てるように言う。
私の冷たい声にビクッとした新井さんは、へらへらした様子でポケットをあさっていた。本当は傷つきながら軽薄を装う彼女の仕草が、私には気持ち悪いとしか感じられなかった。
「ねえ」彼女は言った。
「……」私は彼女をいないもののように扱った。濡れた衣服を脱ぎ捨て髪を拭いた。すると、彼女は急に後ろから抱きついてきて、私の頭を抱え込んだ。彼女の方が背は高いので、私が彼女の顔を見上げる形になった。
「無視しないでよ」
「……」
「死んでやる」彼女はどこからか小型ナイフを取り出し首にあてた。
ありきたりな悲劇ごっこ、見ていたくもない。だから目をつぶった。暗闇の世界で嗚咽だけが響いた。顔にはポツポツと暖かい液体が降り注いだ。それは少ししょっぱかった。これは涙か、血潮か。私は目を開けられないでいた。
ル=グウィン先生、ありがとうございました!!
私も行くべきところに向けて!