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雑文置き場

知るかバカうどんについて、私が知っているすべてのこと

 

なぜ知るかバカうどんを紹介するのか?

 

R-18(エロ)をうどんは捨てた!! って言ってる奴おるけどそんな事ないからな

  ――同人誌まとめ「ボコボコりんまとめ2」の作者あとがきより

 

知るかバカうどん(以下、うどん先生)は、漫画『君に愛されて痛かった』の作者であり、エロ漫画家であり、過去には東方Project二次創作者であった。

それらの経歴は少し調べればすぐにわかることだが、あまり人口に膾炙しているとは言えないだろう。それはきっと、うどん先生の過去作品の多くが人前で語ることがはばかられるような内容だからだ。

『君に愛されて痛かった』のファンの中には、作者がエロ漫画家だったことすら知らないという人も多いのではないかと思う。

そのまま何も知らずにいた方が、偏見を持つことなく、良き読者であり続けることができるかもしれない。

しかし、なぜ『君に愛されて痛かった』が傑作になったのかを語るためには、作者の過去作について知ることは意味があると感じる。

結局のところ、作品の意味はやはり作品から読み取っていく必要があるのだ。

 

正直に書く。

最初は知るかバカうどん全作レビューを書こうと思っていたのだが、はてなブログでは「成人向け情報の掲載や成人向け情報への誘導」が禁止されているので、多分そのまま書いたらBANされることに気が付いて、全作レビューは止めることにした。

ただし、「成人向けコンテンツの文化的社会的側面を主眼においた論評や紹介で、コンテンツの紹介に必然性があり、記事内容がわいせつな興味を喚起しないもの」であれば認められているそうなので、うどん先生の成人向けコンテンツについては、それらの作品がどのようにして『君に愛されて痛かった』に生かされているのかということを紹介するにとどめたい。

というわけで、意図せず不完全な形になってしまったが、この記事に付き合ってくれる人がいればうれしい。

 

 

 

 

『君に愛されて痛かった』(連載:2017年~現在)

あらすじ:

高校野球でピッチャーとして活躍している野村寛は、交際していた叶井かなえを刺殺した。

事件から一年ほど前、中学生時代に受けたいじめのトラウマから自分に自信が持てない叶井かなえは、承認欲求を満たすために援助交際を繰り返していた。偶然に知り合った野村寛に援助交際の現場を目撃されるが、自分に優しくしてくれる彼に対して徐々に心を開くようになる。しかし、そのことから同級生でもあり恋敵でもある市川一花に目を付けられ、高校でもいじめを受けるようになってしまうのだが……かなえと寛、二人の恋は周囲の人を巻き込みながら悲劇へと突き進んでいく。

 

この作品にあえてジャンル付けたいと思う。

スクールカースト恋愛漫画」なんてのはどうだろうか。

学校ではいじめを受けて家庭ではネグレクトに近い扱いを受ける主人公の叶井かなえと、将来を約束されている高校野球のエースピッチャーである野村寛の恋愛、そしてその先に行きつく悲劇を主題としている漫画である。

スクールカーストの底辺にいる主人公が、逆にカーストの最上位にいるようなイケメンと恋に落ちる、少女漫画ではよくある展開だし、男女を逆にしてもオタクに優しいギャルなどは人気を博しているジャンルだ。

しかし、本作はそうした飽和状態のジャンルにあっても、オリジナリティーのある人気作になっている。そこで、本作の魅力がどこから生まれているのかについて考えるとともに、その魅力は作者自身がたどってきた創作遍歴と密接につながっていることを示したい。特に、作者が「エロ漫画」あるいは「東方二次創作」という界隈を渡り歩いてきたことの影響について考えたい。

 

●東方二次創作的

まず確認しておきたいのは、うどん先生が人々に知られる最初のきっかけになったのが東方二次創作活動であり、その頃から一種の「問題作」を書く人物として認知されていたということだ。その時に身についた経験や習い性がその後の創作活動にも影響を及ぼしているという考えはそれほど突飛ではないはずだ。

例えば、うどん先生の作品はキャラクターの再利用がべらぼうに多い。『君に愛されて痛かった』に登場しているサブキャラクターのほとんどが、同人誌からの出張キャラと言っていい。

例えば、一巻だけでも「四話でかなえと肩をぶつける二人組の女性」「八話で一花を誘拐して性的暴行を行う集団」は同人作品に登場してきたキャラクターである。

あらかじめ断っておくと、うどん先生の同人キャラを知ってから読んだ方がいいとか、そういう話ではない。

ただ、うどん先生には、よく言えばスターシステム、悪く言えば自分で書いた作品の二次創作を好む傾向が確かにあるのだ。そして、そうした二次創作を好む姿勢こそが、『君に愛されて痛かった』のサブキャラクターを豊かなものにしているのだ。

 

●エロ漫画的――語りの重層性と同時性

本作では、作者がエロ漫画家としての身に着けたテクニックが生かされている印象がある。それがわかりやすく見て取れるのは、主人公が援助交際で性行為に及ぶ一連のシーンだろう。一話のおおよそ半分の分量を使って、エロ漫画並みの本格的なセックスシーンが描かれることは強く印象に残る。

まず、このシーンでは一般的な青年漫画に比べてセックス描写が異常に丁寧なことに驚かされる。援助交際をテーマにした漫画は数多くあるが、具体的なプレイ内容まで描かれることは少ない。あったとしても正常位でなんとなくセックスしてるんだとわかる程度の描写がほとんどだろう。それらに比べると本作では、援助交際の様子が生々しく描かれている。中年男性の主人公に対する丁寧な前戯から入って、フィニッシュでは主人公が中年男性の上に乗って騎乗位で攻める。

単純にエロいシーンではあるが、それに増して目を引くのはセックスシーンを読むだけで主人公の性格や心情が読者に伝わってくる表現力だ。

ただのエロいシーンというだけではなく、主人公と中年男性が慣れた様子でお互いに愛撫するところは、お互いに援助交際という場が初めてのことではなく常習だということを、主人公が性行為中にしつこいぐらい愛の言葉を催促するところは、そのシーンを見ただけで主人公が承認欲求に餓えているということを、自然と読者に伝えている。

性行為を描きながら、同時に登場人物の内面描写にもなっている。何かをしながら、別のことをやっている、あるいは考えている。この「同時性」がうどん先生の漫画の特徴である。

これは、もちろん援助交際のシーンだけにとどまらない。主人公のかなえが誰かと対話する時、彼女は必ずと言っていいほど相手の話を聞くのと同時に、自身の内面と対話している。

例えば、最新五巻のクライマックスである主人公かなえと彼氏の寛くんが言い争うシーンは秀逸で、言い争いになっているにも関わらず、かなえは相手の話を聞きながら、同時にその内面には複数の声が渦巻いている。かなえは、寛くんの主張を聞きながら、そこにリアルタイムで自分の内面で上書きしていく。誰かがしゃべっている時、そこにかなえの内面が上書きされる。これは本作で多用される表現である。ここでは、この特徴を語りの「重層性」とでも名付けよう。

その「重層性」を成立させているのはフキダシの使い分けである。うどん先生は、フキダシの使い分けが繊細である。フキダシの使い分けによって、人間の内面に存在する様々なレイヤーを表現している。

通常、文学において内面の意識を書く手法には「内的独白」と「自由間接話法」の二つがあると言われているが、うどん先生の漫画でも内面を表現するときにも同じような使い分けが存在するように見える。

フキダシがなく背景に直接書き込まれるセリフはまさに「内的独白」に近い。そのキャラがその場で思ったことがそのまま書かれている。

逆に四角いフキダシで囲まれたセリフは「自由間接話法」に近い。「自由間接話法」は人物の発言や思念をシームレスに地の文に紛れ込ませる。この漫画において四角いフキダシが使われている場合は、ただの内面をそのまま書いたものではない。そこには状況説明の地の文や過去回想が紛れ込ませられている。

うどん先生のフキダシでもう一つ多用されるものがある。「黒いフキダシ」である。これはかなえの内面の声であることは間違いないが、誰かに言われたことがかなえにはそう聞こえているという表現で使われる。誰かがしゃべっている普通のフキダシに、「黒いフキダシ」が覆いかぶさることで演出される。これは、他の漫画ではあまり多用されていない表現で、うどん先生の一種の発明と言ってもいいかもしれない。

 

うどん先生が表現する登場人物の内面の語りには「同時性」と「重層性」あることは了解していただけただろうか。

そのうえで、これらの表現はうどん先生が「エロ漫画」を描く中で磨かれたテクニックと感性だと考えている。エロ漫画はその性質上、作品のほとんどの部分をセックスシーンで埋めなければならない。エロ漫画には実用性が求められており、ドラマ部分に何ページも使っていたら読者は萎えてしまう。作者は読者が飽きてしまうことを恐れて、前置きもなしにセックスシーンを描かなければならない。しかし、ドラマ部分も書いた方が登場人物への感情移入がしやすくなり、物語の厚みが増すことは明らかだ。

つまり、エロ漫画というのは、セックスとドラマを同時進行させざるを得ない表現形式であり、うどん先生はセックスとドラマを同時に重層的に表現するために内面の表現方法を発達させていったと考えられる。

 

次の章からは、『君に愛されていたかった』以外の創作物について語っていきたい。

まず、うどん先生がどのようなエロ漫画家だったか。それを僕たちは知らなければならない。

 

 

 

成人向け漫画(活動時期:2015~2020年)

エロ漫画は集合知じゃないですか

   ――夜話ZIP『C100、エロ同人これを買え!』chin先生の発言より

 

成人向け漫画には、成人向け漫画における文脈がある。文脈を無視して作家論を語ることはできない。

成人向け漫画家という文脈において、うどん先生がどのような評価を受けているのかを知る資料は少ないが、新野安・氷上絢一 編著『エロマンガベスト100+』に見られる以下の記述は参考になるだろう。

 

二〇一〇年代ネット上を騒がせたエロマンガ家としては、確かにこの二人*1が両巨頭だろう。「騒がせた」というものをもう少し具体化すれば、⑴エロいかどうかとは別の軸から、⑵「危険な」マンガとして話題になり、⑶批評的な支持も受けた。

 

新野氏のこうした評価に、私もおおよそ賛同する。

しかし、この記述からでは、うどん先生がどのように「危険な」漫画を描いていたのかは伝わらない。そこを掘り下げてみようと思う。

 

まずは、前提知識として触れておきたいのが、うどん先生の作品が掲載されていた成人向けコミック雑誌「コミックMate L」は、そうとうに特殊な雑誌であるということだ。

例えば、『神様お願い』の小骨トモ、『やったねたえちゃん!』のカワディMAXなども同じ雑誌で連載している。成人向け漫画という枠を超えて、漫画界に少なからず影響を与えている雑誌だと言えよう。

これは、クジラックス先生の存在が、《ロリ漫画の灯を消すな》という考えから創刊された「COMICエルオー」からデビューした事実と切り離して考えることができないように、うどん先生も「コミックMate L」*2で商業デビューしたことを切り離して考えることは難しい。

「コミックMate L」は2015年に創刊されたのだが、そもそもずっと以前から「コミックMate」という雑誌が存在していた。

つまり、「コミックMate L」はテコ入れによって新創刊された雑誌である。そのテコ入れの実態とは、いわゆる鬼畜系と言われるような過激な成人向け漫画を売りにしていた「コミックMate」が、以前の鬼畜系を継承しつつロリ系の要素も取り込んだというものだった。

その「鬼畜系」と「ロリ系」という二つの要素を満たした作家として、鳴り物入りで迎えられたのがうどん先生だったのだ。あるいは、「鬼畜系」と「ロリ系」を併せ持った表現の場でなければ、表現できないテーマを抱えていたのがうどん先生だったと言えるかもしれない。

 

では、実際にうどん先生はどのような創作のテーマに取り組んでいたのかについて見ていこう。はてなブログの規約上、具体的な作品タイトルをあげられないのでご容赦いただきたい。

うどん先生の成人向け漫画に多く見られるプロットとしては、以下の二つがある。

 

(A)劣悪な環境で育った少女がそこから抜け出すために一生懸命に足掻くが、その過程で酷い暴力にさらされる。

 

(B)社会的な弱者(ホームレス、ひきこもり、障がい者など)が、自分たちを馬鹿にした、あるいはいないものとした少女たちに復讐する。

 

(A)の場合、例えば、薬物中毒で売春によって生計を立てている母親に育てられた少女が主人公の話がある。彼女はそうした環境に絶望しきっていたが、友達ができて一緒の高校に行こうと誘われたことから目標に向かって努力するようになる。しかし、進学のための学費は当然自分で稼ぐ必要があり、母親の客である男からAV撮影を持ちかけられるのだが……という調子である。

これをただ女の子がかわいそうな話として消費することは容易であるが、そう簡単に割り切ることのできない作品である。地獄のような環境で育った少女が、一人の少女と出会うことで必死によりよく生きようともがく姿は、ある意味では「かわいそう」などという言葉で消費させない尊さや力強さがある。

 

(B)の場合、社会的に軽視されている存在が、社会を舐めている少女に対して復讐するという内容のものである。こういった作品は、描こうと思えば被害者の自業自得の物語として後味の良いものにしあげることもできる。(実際、成人向け漫画はそういった形式のものが多い。)

しかし、うどん先生は決してそのようには描かない。その場で行われている暴力の凄惨さを冷徹に描写することに徹している。

 

ここにおいて、うどん先生は成人向け漫画における加害者と被害者に取扱いに対して、非常に誠実な視線を投げかけているように思う。

(A)においては被害者は本当にただの〈被害者〉というラベルで見ることが正しいのかと問いかけているし、(B)においては加害者と被害者の関係性自体を不安定なものにすることで、読者の価値観自体を揺るがそうとしている。

 

うどん先生の成人向け作品は、少女が非常に理不尽な暴力にさらされる内容が多くを占めているため「危険な」作品とみなされた。

しかし、それだけではないだろう。社会から見捨てられた人たち、見て見ぬふりをされている人たちを成人向け漫画の世界に連れ出して、加害者と被害者を演じさせること自体が危険だと考えられたような印象を受ける。

 

さて、次章においてはうどん先生の同人作品を語りたい。商業作品の枷から解き放たれた先生は、さらにこれらのテーマを深めていくことになる。

 

エロマンガベスト100+

 

nlab.itmedia.co.jp

 

 

オリジナル同人(2014~2018年)

うどん先生は、成人向けコミック雑誌で連絡する前から精力的にオリジナル同人誌を発行していた。商業作品ではないので、より自由度が高くストーリー性の高いものが多く描かれている。

成人向け漫画とおおよそは似たような内容であるが、違うところももちろんある。

例えば、成人受け漫画では(特に鬼畜系を標榜するのであればなおのこと)、加害者と被害者の関係、ありていに言えば犯す者と犯される者の関係に縛られてしまうのだ。

うどん先生同人誌(特に後期作品)では、そういった決まりごとを破壊して善悪の境を超えた物語に踏み込んでいっている。

特に近年の二作は異色作である。簡単にあらすじを紹介しよう

 

●田舎の寿司屋の手伝いをしている少女は、店に客として来たある男に興味を持つようになる。その男は憧れの東京からダムを造りに来た作業員で、三年後には帰ってしまうことがわかってはいるものの、男と少女は肉体関係を持つようになってしまう。少女は「与えたものは必ず返ってくる」の信念に従って、男に対して絶え間ない愛を注ぎ続けるのだが、無情にも男はダムが完成したために町を去り、妻と子供の下に帰ることにする。それを知った少女は男を拘束し性的誘惑で「自分のことが好きだ」と言わせようとするのだが……。

 

●顔はイケメンではないが頼りがいがあってモテる康夫。彼は美人な彼女と気の抜けない友人を持ち、幸せに暮らしていたのだが、彼女をかばって車と衝突事故を起こしてしまう。事故の後遺症で彼女の顔もわからないほどの障害が残ってしまった康夫は、彼女や友達にも見捨てられてしまうのであった。そんな様子を見ていた地味な女子高生である心は、事故前の康夫と親交があったと嘘をついて、毎日見舞いに行くようになった。そうして康夫と関係を深めるうちに、心は恋愛感情を持つようになり、康夫に対して性的に迫るようになるのであった。

 

これらの作品をもって、登場人物たちを被害者や加害者という区分に押し込めることは意味を持たない。これらの物語で出てくる人間関係は、物語の最初から「終わっている」のだ。あるとしたら、あきらめのような共依存関係のみである。

これらの作品でなぜか印象に残るのは、ただ必死に生きようと、愛を求めんとする少女の姿である。不思議だが、うどん先生の同人誌からは、やけくその希望のようなものを感じるのだ。

 

最後の章ではうどん先生の最初期の仕事について紹介し、この駄文を終わりとしよう。

 

 

東方同人(2011~2013年)

原始の知るかバカうどんは、何者だったのか。それは闇に包まれている。

最初に確認できるのは、ニコニコ動画やスカトロ系東方二次創作掲示板で活動している投稿者としてである。

特に、静画の投稿*3やボイスドラマの制作*4が注目を集め、様々な場面で反響を呼んだ。

しかし、本人が最も力を入れていたのは東方Projectの二次創作である。

特にうどん先生が、熱を上げていたキャラは「姫海棠はたて」「東風谷早苗」などである。彼女たちが「不幸で」「かわいそうな」キャラだから好きであるということを、うどん先生は隠さなかった。なぜなら、彼女たちはすでに人気だった東方キャラの「2Pカラー」のような存在として生れ落ちている。

ここには、うどん先生の心の奥で澱のようにたまっている創作意欲の源泉があるかもしれない。

タイトルで検索すれば、今でも読めるので興味があれば読んでほしい。

 

『JKはたたん』

あらすじ:

姫海堂はたては、同じ新聞屋として働く射命丸文と友達になることで幸せな学校生活を送っていた。しかし、転校生の東風谷早苗が現れてから、文を彼女に盗られてしまったと考えるようになっていた。そんな中、早苗が陰で下級生たちに暴力をふるっている現場をはたては目撃してしまう。その日から、はたては早苗からいじめの標的にされてしまうのであった。

 

学園いじめものとして、スタンダードな出来の作品。ピアスを引きちぎるシーンなどはフェティッシュでよい。

 

『ニコ生はたたん』

あらすじ:

リアルでの生活に傷を負った姫海堂はたては、ニコ生で中傷コメントをみてリスカするような最底辺配信者になっていた。そんなところに、射命丸文から連絡があり、仲直りするチャンスとファミレスを訪れたが、そこには文だけでなく犬走椛も同席していた。何とか仲良くしようと努力するはたてであったが、文から頼まれた仕事もうまくいかず、椛からは執拗ないじめを受けるようになる。そんなはたてが最後に頼ったのは、薬物だった。

 

レクイエム・フォー・ドリームみたいな話。ネタ漫画として当時は消費されていたが、過酷な状況で躁鬱になる主人公が薬に頼って壊れていくところの心情描写には迫真のものがある。

 

『儚き信仰は儚き人間のために』

あらすじ:

中学生の東風谷早苗は、母親がハマっている新興宗教の勧誘にいつも連れ出されていた。学校で友達になってくれそうな子はいるけれど、母親の教えで携帯電話すら持つことが許されないのであった。そんな早苗には、八坂神奈子洩矢諏訪子という神様が自身にだけ見えていた。彼女たちは幻想郷という理想郷を説くのであったが、早苗には行く方法が見つからなった。早苗は、学校に手作りクッキーを作っていくなどして友達を増やしていったのだが、ある時、母親が新興宗教の勧誘をしていることが学校で広まってしまう。それからは熾烈ないじめを受けるようになってしまい。神様から死ねば幻想郷に行けると言われるが、早苗には母親を残して死ぬ覚悟はなかった。エスカレートするいじめの中で、早苗は疲弊していき、信仰が救ってくれるのを待つようになっていた。

 

いじめ問題の中に「神の沈黙」のテーマを盛り込んだ意欲作。スコセッシも『沈黙 -サイレンス-』を撮る前に本作を参考にしたかもしれない。

なぜ人はいじめ、いじめられ、救いはどこにあるのか、神は何も答えてくれない。

 

『The greatest hate springs from the greatest love.』『パキパキはたたん』

この二作品は、成人向けなので紹介でいない。残念だ。

 

 

以上で、私は知るかバカうどん先生について知っていることはすべて書いた。

ここまで本記事を読んでくれた君は、知るかバカうどん先生について多少詳しくなったはずだ。でも、サブカルチャーは人を導きえない。

現実に帰ろう。ツイッターでも見ながら新作があがるのを待とう。

なぜか『君に愛されて痛かった』のkindle版が消されているけど、私には何もわからない。たぶん移籍騒動と何か関係があるのだろう。

私はうどん先生の過去作が世間で忘れられていくのが嫌だっただけなんだ。ただ、それだけだったのに……。

*1:クジラックス知るかバカうどんのこと

*2:キャッチコピーは《鬼畜陵辱系アンリミテッドマガジン》

*3:「艦これ」をおちょくった画像をあげたので「対立煽り」と非難され私怨を受けるようになった。

*4:淫夢やそこから派生したクッキー☆に取り込まれそうになったが、なんやかんやで取り込まれずに済んだ。

『紙魚はまだ死なない』レビュー

紙魚はまだ死なない: リフロー型電子書籍化不可能小説合同誌


 murashitさんの「点対」(ささのは文庫の同人誌『紙魚はまだ死なない』収録)が、伴名練による超大型アンソロジー『新しい世界を生きるための14のSF』に収録されたそうですね。いやあ、めでたい。めでたいついでにレビューしておこうと思いました。

 murashitさんと私は、同じ『文体の舵をとれ』合評会に参加していただけの仲でして、「それってただの他人じゃん」なわけですが、「一緒に文舵をやった仲」ってどれぐらいの親密度なんでしょうか。「同じ釜の飯を食った仲」よりは親しいですか? 「一つ屋根の下で暮らす仲」よりは親しくないですよね?


 本題に入りますが、まず同人誌のコンセプトがかっこいいんですよね。

リフロー型電子書籍にすることが絶対にできないオリジナル小説集。

 つまり、収録されている作品すべてに、リフロー型電子書籍では再現できない、固定されたレイアウトでないと成立しないような企みがある短編集となっているわけで、いったいどのような手練手管が見られるのか楽しみです。




※あらすじは考えるのが苦手なので公式のものを引用しております。


春霞エンタングルメント /cydonianbanana

衛星カリストの採掘オペレーター・トマはその日、二〇五〇年のβ地球へログインし、山奥の旅館で恋人のニナと落ちあう。地球−カリスト間の通信ラグで四〇分間ずれた時間を過ごす二人の前に現れたのは、世界の仕組みに精通する謎めいた湯守の老婆だった——可能世界と宇宙の距離を超えて絡み合う、湯けむりSF恋愛譚!


 ここで採用されている技法は、一頁を三段にわけて各段がそれぞれ別の視点の話になっているというものです。一つの頁に三つの視点の物語が同時にタイムラインのように流れていくわけです。

 この技法を使うことで、同じ時間軸を共有しつつ違う視点で書かれた物語を読者は並行して読むことができます。これ自体は参考文献にもあげられている『紙の民』で使われていた技法の引き写しですが、本作にはそれ以上の工夫があります。全く同じ時間軸で話が展開されるのではなく、各段落の時間軸が少しずれていること、そしてその時間のずれに物語上の必然性を持たせていることです。その時間のずれは、木星の衛星カリストにいるトマと、地球にいる恋人のニナの間に隔たる四十分間の通信ラグとして説明されます。それは例えば「ほしのこえ」のような時間軸もずれてしまうほどの遠距離恋愛を思わせ、非常にロマンチックです。しかし、そのロマンチックの陰には、どこかメランコリーな部分も感じます。男と女の間にある決定的な分かり合えなさを表現しています。しかし、本作の場合はSF的なアイデアを持ち込むことで決定的にすれ違っている男女もいつか出会うことがあるかもしれないという希望のある終りになっているのが読み味をよくしています。



しのはら荘にようこそ!/ソルト佐藤


『しのはら荘』は4つの部屋だけの小さなアパート。でもそこには、巨乳の美人管理人さんがいるのです。そんな管理人さんと住人のゆるふわライフが各部屋で同時進行! おねショタ、ハーレムラブコメ、ダメ人間の成長コメディ、愛憎あふれるミステリーと盛りだくさん。みなさんも『しのはら荘』の生活を覗いてみませんか?


 本作では見開き一頁を四分割して、分割されたコマが「しのはら荘」の部屋割りと一致しており、それぞれの部屋で起こっている話が関係しあったり関係なかったりして物語が進みます。

 この技法を使えば、前の「春霞エンタングルメント」と同じように複数の視点人物の話を同時進行で読ませることができます。しかし、読者に与える効果は多少違うことになります。前作では、段に書かれた文章は巻物のように左へと続いていき、絵巻物のように時間の連続性、意識の流れを保証します。しかし、本作の表現では視点の連続性は薄れていると言えるでしょう。一人の視点の物語は頁をめくるたびに細切れになってしまいます。その副作用かもしれませんが、作者は短い文章の中でフックになるオチを持ってくることを意識して書いています。そこが頁をめくる緊張感を最大限に高める工夫となっています。



中労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)/皆月蒼葉


パスティーシュSFの奇才待望の新作、その題材は判例雑誌。2050年を舞台にした物語は全てが命令文の中で語られる。虚実入り交じる法解釈、緻密な事実認定、膨大な証拠資料、徐々に明らかになる真実。これは作者からの挑戦状である。置き去りにされたリーダビリティの中で通読を終えたとき、命令文の裏に広がる真の物語を見いだすことができるか。


 判例雑誌のパロディである本作は、おもちゃ箱のような楽しみに満ちた作品です。本作にはパロディでできることはなんでもやってしまおうという気概に満ち溢れていて、「新聞記事」「手紙」「掲示板の抜粋」「文科省ガイドライン」「ビラ」など、合間合間に挟み込まれるパロディのバリエーションは多様です。これらの補助資料を読み込むことだけで読者は充分に楽しめるわけですが、しだいにミステリ的な快楽も感じるようになります。本格ミステリの中で手掛かりを集めるように資料を読み込んで、三光インテック事件の真相を読者は推測しなければなりません。本作では、作者が読者に対して物語の道筋を描いてはくれません。読者が文章から物語を組み上げていかねばならない、挑戦的な物語です。



点対/murashit

コレアンダー氏はパイプの柄で、向かいあわせにおいてあるもう一つの安楽いすをさした。バスチアンは腰をおろした。「さあ、それでは、はなしてくれ。いったいどういうことなんだい?」コレアンダー氏はいった。「だが、たのむから、ゆっくりと、順を追ってはなしてくれ、な。」


 この小説を一言で説明すると、一行ごとに別視点で書かれた、それも双子の兄弟の視点が一行ごとに入れ替わりつつ書かれている小説です。しかし、この単純な説明ではあまりに取りこぼされているものが多く、充分に魅力を伝えることができません。私には異文化で書かれた小説を読んだような感覚に打ちのめされて、あまりに考えが整理できないので作者のブログをだらだらと読んでいたのですが、ちょっとわかったところもあって、

murashit.hateblo.jp

この小説って読者に対して説明してないのかもしれません。実験的な手法を使った小説には、作者が読者に対して「この小説はこのようなコンセプトで書かれた小説ですよ」って説明している部分が多少入ってしまうものだと思うのですが、この小説はそれが極端に少ないのです。作者が「こんなことはあたりまえであり、なんでもないことなんだ」ってスタンスで書いてるんですよ。怖いね。

 


冷たくて乾いた/笹帽子

決して読むことをやめられない『悪魔の書』に囚われた妹と、どこまでも冷たくて乾いている私。万能読書機械に導かれバベルの図書館の無限遠の対角線に沈降する私が、読書以外すべてを拒絶する妹に与えられるものとはなにか。DEATHとMATHに満ちたスペキュレイティブ・フィクション。


 決して読むことをやめられない『悪魔の書』を紙上に再現しようという試みの魔術的な小説です。そこに、ある姉妹と万能読書機械の物語が展開されます。

 この小説集のコンセプトからして、小説を読む、あるいは書くという行為に自覚的にならざるを得ないわけですが、本作は特にその部分に意欲的に真正面から取り組んでいるのが好印象です。「冷たくて乾いた」というタイトルも読み終わってみるとしっくりきまして、これは小説を書くのに適した状態のことだそうですが、では「熱くて湿った」ものは何なのかというお話です。


ボーイミーツミーツ/鴻上怜

 これはあらすじを読まずに読んだ方が面白い気がしたので省略しました。

 はちゃめちゃなセンスで書かれたユーモアが楽しい小説です。読んでる途中で何度も価値観が揺らぐというか、世界が反転する瞬間があるので、これから読む人はそこを楽しんでほしいです。特に意味は分からなくても、世界が反転すること自体が読書の醍醐味であることは間違いないですから。



新しい世界を生きるための14のSF



読書系サークル新入生に薦める、君の脳を破壊するかもしれないホラー10選

 

 四月中には書いて投稿しよう思っていたら、五月も終わろうとしていた……

 あまたの若者が大学の門をくぐり、どのサークルに入ろうかと新歓イベントに参加する時期である。このGWにどのサークルに入るをじっくり考えて決断した人もいるだろう。もしかしたら読書系サークルに入った(入ろうとしている)人もいるかもしれない。そうした新入生が有意義な読書生活を送るために、私が厳選したホラーを10作品をご紹介したい。それも読むだけで脳になんらかのダメージを与えるような本をすすめたい。なぜかと言えば、読書系サークルで生き残るためには脳を鍛える必要があるからだ。骨折した骨は、治る過程でより強くなると聞いたことはないだろうか。脳も同じである。君も脳を積極的に破壊して、最強の読書系サークル新入生になろう。

 

 

【選定基準】

●「怖さ」や「残酷さ」よりも、読むことで脳に強い衝撃を与える作品であるかどうかを基準とする。

●手に入りやすいかどうかは考慮しない。自分が本当に優れていると思うものを選ぶ。

●ホラーの定義にも頓着しない。ただ、バッド・テイストな話であることだけは保証する。

 

 

 

 

つきだしの短編2作

チャック・パラニューク「はらわた--聖ガット・フリー語る」(ミステリマガジン2005/ 6 No.592)

 

息を吸って。

肺にたまるかぎり空気をためるんだ。

この物語はあんたが息を止めていられるだけ続く。

 本作は、私たちに語りかけるようにはじまる。朗読ツアーで読まれると毎回何十人もの失神者を出したということで伝説的な作品だ。そのエピソードがどの程度まで誇張なく真実なのかはわからないが、読者がそう信じたくなる程度にはインパクトのある作品であることは間違いない。重厚な印象さえ受けるタイトルではあるが、その内容はマスターベーションに命をかけた男たちの遍歴を綴った小話であり、下品を究めた聖人伝である。この小説は読者を不快な気持ちにさせるという以外の機能を持たない。最近は何かとチャック・パラニューク作品が復刊されるので、本作も手軽に読めるようになることを期待する。

 

池田得太郎「家畜小屋」 (現代文学大系〈第66〉現代名作集)

 屠殺場で働く五郎は、体の衰えによって失敗が続き、屠殺から家畜の糞掃除に仕事を引き下げられてしまう。職場の同僚や、かつては自分を恐れていたはずの家畜にさえ馬鹿にされるようになった五郎は追い詰められていき。ある日、給料が減ったことで妻と口論になった五郎は、「豚にも劣るくせに!」「口惜しかったら豚になってみろ!」と罵倒するのであったが、それが二人の奇妙な新生活のはじまりであった。

 中央公論新人賞佳作に入選し、特に三島由紀夫から絶賛を受けた怪作である。五郎の視点を通して描かれる血と糞尿に塗れた世界は、圧倒的な生理的嫌悪感をもって読者に迫ってくる。しかし、本作の破壊力はそこだけにとどまらない。人間を辞めた妻が豚と性的関係を持つようになってからの展開がとにかくすさまじい。妻に拒絶される五郎の惨めさや悔しさが、非常にねばっこい文体で綴られており、寝取られこそが最も効率的に脳を破壊するということを真に理解できる小説である。

 

 

 

 

海外作品4作

リチャード・マシスン『地獄の家』 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

 メイン洲の深い森に建つベラスコ・ハウス、かつてここでは淫蕩と残虐のかぎりが尽くされ、今は怨霊がとり憑いた地獄の家になっていた。その館の謎を解くべく、専門家である男女4人が館に踏み込んだ。バレット博士は超心理学者として転換器を使用し、フローレンスは霊媒として降霊会などを行うのだが、館の中に渦巻く邪悪は人間の想像を超えて襲いかかってくるのであった。

 マシスンは、無機物が敵意を持って襲い掛かってくる恐怖を好んで題材にした。スティーヴン・スピルバーグが映画化した『激突!』が代表例になるだろう。トラックそのものに殺意が宿っているような独特の恐怖を描いており、人間ではない無機物までもが自分に対して敵意を抱いているという被害妄想的な精神が、他のホラーにはない恐怖を生み出している。幽霊屋敷という定番のシチュエーションであっても、マシスンのそうした感性を通すと、充分に読者の脳を揺さぶることができるのだ。家という無機物に宿っている悪意に襲われる登場人物たちの姿は凄惨というしかなく、古典的な幽霊屋敷とは一線を画す肉体的な暴力に溢れている。

 

メイ・シンクレア『胸の火は消えず』 (創元推理文庫)

 メイ・シンクレアはヴィクトリア朝に生まれただけあってどこか古風なゴースト・ストリーを書く作家ではあるが、一方で女性の自由や性に対する問題意識を持った非常にモダンな感覚を備えている人物であったとされている。女性解放運動にも参加し、のちに心霊学にも傾倒していく彼女の作品は、複雑な女性心理を扱うことを得意としており、その作品は時に異様な禍々しさを放っている。短編集である本作は、すべての収録作が古風でありながら、どこか風変わりで他では読んだことがないような心霊ホラー小説に仕上がっている。

 収録作の中では、特に「仲介者」という短編が嫌な後味を残す。下宿先に子供の幽霊がでてくるという典型的なゴースト・ストーリーの体裁をとっているが、その幽霊には不可解なところがあり、霊感のある主人公が心霊現象の謎を解き明かしていくことになる。子供の幽霊が現れる真の理由が明らかになった時、今まで見えていた平凡なゴースト・ストーリーがひっくり返ってグロテスクな人間関係が浮かび上がることになる。家族関係の中に地獄を描いた作品である。他の収録作にも共通するが、読むとぐったりするような疲弊感がある。

 

マリアーナ・エンリケス『わたしたちが火の中で失くしたもの』(河出書房新社

 アルゼンチンのホラーのプリンセスと呼ばれるマリアーナ・エリンケスの作品は、ボルヘスコルタサルが作り上げたアルゼンチン幻想文学の系譜、あるいは彼女自身が評伝を書いたシルビーナ・オカンポからの流れを感じる作家である。しかし、彼女は最も敬愛する作家としてヘンリー・ジェイムズ、シャーリー・ジャクスン、スティーブン・キングの名をあげており、ホラーの血が存分に交じり合っている作家でもある。

 麻薬に溺れる若者たちがアルゼンチンの社会情勢とともに破滅へと向かっていく「酔いしれた歳月」、アルゼンチン社会における女性への暴力を恐怖小説へ転換した表題作「わたしたちが火の中で失くしたもの」など、本書には土地と生活に結び付いた恐怖が描かれている。特に、巻頭を飾る短編「汚い子」は、アルゼンチンという土地そのものに染み付いた腐敗と狂気の中に、一人の女性が巻き込まれて陥穽に落ち込んでいくところが恐ろしい短編である。狂気が恐ろしいのは当たり前であるが、彼女が描く作品には生活に裏打ちされた狂気が描かれており、それが妙な説得力をもって迫ってくるのだ。

 

イアン・バンクス『蜂工場』(河出文庫

 英国本土と橋でつながっているスコトットランドの島に、父とふたりで住む十六歳の少年フランク。母親はフランクを産んですぐに失踪し、島を訪れる者はほとんどいなかった。フランクは呪術的な儀式に没頭し、秘密基地で動物を虐殺する日々を送っていた。そんな中、腹違いの兄エリックが精神病院から脱走したとの報を受け、フランクは大きな衝撃を受けることになる。

 特にこの小説がホラーとして優れているのは、人間の気が狂う瞬間をとらえていることにある。(そもそも正気の人間は一人も登場しない小説ではあるが、、、)主人公の兄エリックが精神病院に入れられるきっかけになった事件に関する描写を読んで衝撃を受けない読者はいないだろう。「こんなことがあれば気が狂っても仕方ない」と万人に納得させる筆力がある。全人類に読んでほしい名作である。

 

 

 

 

国内作品4作

村田 喜代子『望潮』(文藝春秋

四谷怪談」が典型ですけれども、幽霊って、最初は幽霊じゃないんですよ。生きた人間として普通に別の生きた人間と関係を持っていて、ある時、死んじゃう。幽霊になって、そこから生きた人間と幽霊の関係というふうに変質していくんですよね。

黒沢清ダゲレオタイプの女』インタヴュー

 これは映画監督の黒沢清の言葉であって本作とは何の関係もないが、人間が幽霊になっていく過程を描くことに恐怖を見出した視点は示唆に富んでいる。本書はまさに人間が幽霊に変わっていく瞬間を捉えることに成功している作品の宝庫で、玄界灘の小島で腰の曲がった老婆が箱車を押しながら車に体当たりを繰り返す「望潮」、マンションの屋上から墜落死する女の姿を忘れられない人たちを描く「浮かぶ女」、高速バスの事故に巻き込まれ山中に取り残された男女が生き残るためにあがく「水をくれえ」など、知らぬ間に人間が幽霊に変わっていく恐ろしさを堪能できる。

 

吉田知子『お供え』(講談社文芸文庫

いろいろの異常を書き過ぎてはいないだろうか。

 これは第六十三回芥川賞を受賞した「無明長夜」に対する川端康成の選評である。批判的な意味合いで発せられた言葉ではあるが、吉田知子作品の魅力をうまく捉えているようにも思える。とにかく異常なことが起こりすぎるのだが、ディテールの集積によって読者にそうした異常を受け入れさせてしまうところに彼女の力量があるのだろう。

 そうした作品群の一つの到達点として本書がある。蕨を摘んでいるうちに死者たちの祭りに紛れ込んでしまう「迷蕨」、叔母の家に向かう道すがら死者が同行している「海梯」、未亡人が意図せず神様に祭り上げられていく「お供え」など、死者と生者、狂気と正気が入り混じる悪夢的な短編が七つ収められている。特に、最後に収められている「艮」はディテールの集積と一人称の語りによる表現が圧倒的で、時間や空間を超えて交じり合う無限循環的な世界は、短編でありながら『ドグラマグラ』に匹敵する狂気を伝えている。

 

小林泰三『人獣細工 』(角川ホラー文庫

 日本ホラー小説大賞の精神的中心は小林泰三である。(※ただの個人的偏見。)

 小林泰三は「玩具修理者」で鮮烈なデビューを果たし、単行本に併録された「酔歩する男」ではホラーだけでなくSF的センスの高さを証明してみせた。その後もホラー、SF、ミステリとジャンル横断的な活躍を見せるわけだが、あまりに多芸すぎるゆえにかえって純粋なホラー作家としての資質に目を向けられることは少なかったかもしれない。では、彼のホラー的センスが最も強く示された作品は何だったのかと言えば、それは「人獣細工」だと思う。幼い頃から繰り返し彘(ぶた)からの臓器移植手術を受けていた少女の内面を一人称の語りでみせた作品である。自分が人なのか彘なのか悩む主人公は、アイデンティティーの危機というホラーにおいて普遍的なテーマを扱っているわけだが、そこに生理的な恐怖を持ち込んでいるところに作者の特色がある。「わたしは四六時中、彘の唾を飲み続けている」という一文のさりげない気持ち悪さは、今読んでも強烈だ。

 

矢部嵩保健室登校』 (角川ホラー文庫)

 日本ホラー小説大賞には、小林泰三から矢部嵩に流れる黒い水脈がある。しかし、いくら精神性につながりがあっても、この二人は創作姿勢は正反対だ。つまり、小林泰三はSFを書くためにホラーという形を借りた作家で、矢部嵩はホラーを書くためにSFの形を借りた作家であるということだ。これは私の勝手な実感だが、その見方が正しいと仮定して二人の作品にどのような違いがあるのかを考えてみたい。小林泰三のホラーは謎解きのようでもある。まずはじめにホラーとしての異常な状況(謎)が提示されて、その謎にSF的に理屈の通った解釈を加えるということだ。先に紹介した「人獣細工」はその典型だろう。なぜ父親は彘(ぶた)と少女の身体を入れ替えることに執着したのかというホラー的謎に対して、臓器移植や遺伝子組み換えの技術的な面を突き詰めていくことでSF的論理から導かれた答えが読者に与えられる。ホラー的状況を描くことよりも、その状況にSF的な理屈をつける方に興味が寄っているのだ。対して、矢部嵩はどうか。代表作『〔少女庭国〕』では明らかにSF的論理よりもホラー的状況の方が先にある。石造りの無限に続く回廊に暮らす人たちの生活を描くということに、この小説の主眼はある。まず悪夢的な状況を設定して、その状況を成立させるためにSF的論理を流用していると言える。あくまで、理屈をつけることよりも異常な状況を描くことに淫している。

 ここまで二人の違いについて書いてきたが共通している部分もある。それは、ホラー的状況を押し通すためにある種の「論理」が利用されることである。しかし、小林泰三が使う論理が非常に筋の通ったものであることに対して、矢部嵩のそれはたいてい歪に曲がっている。そうした曲がった論理の最高峰として『保健室登校』をあげたい。本書に収録されている短編はどれも最終的には手足がもげたり首がとんだりスプラッター的な悲劇に帰着するのだが、その結末に至る論理の飛躍と屈折こそ見所である。特に、表面的には生徒に対してストーカー的に付きまとっていた先生が破滅する「期末試験」を、異常な論理を扱ったホラーの傑作として推したい。

 

 

 

 

 

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』練習問題:第10章、ついに最終回!

第9章 詰め込みと跳躍

 

原文:
 ポツポツと、顔に何かが当たった。
 顔を手で拭ってみると濡れていたので、雨が降ってきたのだとわかった。
 家まではまだまだ距離があった。すっかり仕事でくたびれていたから、私はできるだけ走りたくはなかったが、その想いに反して徐々に雨脚は強まってきていた。結局のところ、私は全力疾走でマンションのエントランスに駆け込むはめになった。
 私は荒い息をさせながら白いハンカチを取り出すと、濡れた髪をかきあげて、顔の水滴を拭いた。背中にまで雨水が入り込んで気持ちが悪かった。ふと、ハンカチを見ると赤く染まっていた。
 私は指先をそっと自分の鼻の下に持って行った。指先にも赤いものがついた。
 どうやら急に走ったために、顔に血がのぼって鼻血がでたらしかった。血は止まっているらしかったので、残りの血をハンカチで拭きとって、エレベーターで自分の部屋に向かった。
 自分の部屋の中に入って、「ただいま」と私が言うと、誰もいないはずのリビングの方から、「おかえり」と返事があった。
 リビングでは、新井さんが座ってテレビを見ていた。
「もう来ないでって言ったよね」私は舌打ちをして、「なんなのもう、本当にあり得ない」と吐き捨てるように言った。
「だって、寂しかったんだよ」と言って、新井さんはテレビを消すと、こちらに向き直った。
「合鍵、まだ返してもらってなかったね。そこに置いといて」
 私がそう言うと、新井さんはへらへらしながら、「どこにいったかなぁ」なんて言いながらポケットの中をあさっていた。
 新井さんのやることなすことすべてが、私の興を冷めさせた。本当は傷つきながら軽薄を装う彼女の仕草が、私には気持ち悪いとしか感じられなかった。
 私は相手に背を向けて座ると、ぐしょぐしょになった自分の髪をバスタオルで拭きはじめた。
「こっちを見て話しをしようよ」と、新井さんが後ろで言った。
 私が答えないでいると、新井さんは何を考えたのか、後ろから抱きついて、私の頭を抱え込んだ。そうすると、彼女の方がずいぶん背は高いので、私が彼女の顔を真正面から見上げる形になった。
「どうして無視するの」新井さんがそう言っても、私が何も答えないでいると、「もう死んでやる」と言って、彼女は小型のナイフを取り出して自分の首筋にあてがった。
 本当に仕方のない、つまらないやつだと思った。見ていたくもなかった。
 私は、実際に目をつぶった。
 新井さんは、ちょっと尋常じゃない様子でしゃくりあげ嗚咽した。
 私の顔に、ポツポツと、たいへんな量の暖かい液体が降り注いだ。その液体は、私の頬をつたって、口の端から口内に入り込んだ。
 それは少ししょっぱかった。これは涙であろうか、血潮であろうか。私は目を開けられないでいた。

 

回答:
 ポツポツと、水滴が顔にあたった。
 疲れきっていたがマンションまで走らざるを得なかった。屋根のあるところにたどり着いてひと息つくと、鉄の臭いが鼻をついた。指先を鼻下に持って行くと赤くなった。
 自分の部屋に入ると何か違和感を覚えた。誰もいないはずのリビングから明かりが漏れていたからだ。
「おかえり」リビングでは新井さんがテレビを見ていた。
「もう二度と来ないで、合鍵も返して」私は吐き捨てるように言う。
 私の冷たい声にビクッとした新井さんは、へらへらした様子でポケットをあさっていた。本当は傷つきながら軽薄を装う彼女の仕草が、私には気持ち悪いとしか感じられなかった。
「ねえ」彼女は言った。
「……」私は彼女をいないもののように扱った。濡れた衣服を脱ぎ捨て髪を拭いた。すると、彼女は急に後ろから抱きついてきて、私の頭を抱え込んだ。彼女の方が背は高いので、私が彼女の顔を見上げる形になった。
「無視しないでよ」
「……」
「死んでやる」彼女はどこからか小型ナイフを取り出し首にあてた。
 ありきたりな悲劇ごっこ、見ていたくもない。だから目をつぶった。暗闇の世界で嗚咽だけが響いた。顔にはポツポツと暖かい液体が降り注いだ。それは少ししょっぱかった。これは涙か、血潮か。私は目を開けられないでいた。

 

 

 

ル=グウィン先生、ありがとうございました!!

私も行くべきところに向けて!

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』練習問題:第9章

第9章 直接言わない語り――物事が物語る

 

問一 方向性や癖をつけて語る

 

「あなたはどんな暴力が得意なの?」

「いや、特に」

「ずいぶんと殴るのが上手いのね」

「鍛えてますから」

「ほんとに上手」

「僕ばっかりにやらせるのはやめてくださいよ」

「わたしは、これ」

「わあ、痛そうですね」

「わたしも蹴るのは慣れているの」

「でも、ひと思いに気絶させてやった方がいいんじゃないですか。どうせ殺すんですから」

「そういうわりに手加減しないのね」

「いやでも、かわいそうですよ」

「ほんとに上手。ほれぼれするぐらい」

「なんだか疲れてきました」

「交代しましょうか」

「顔はやめてくださいね。口の中を切ったらしゃべれなくなりますから」

「そろそろ彼もしゃべりたくなってきたかしら」

「そうですね。ガムテープをはがしてやりましょうか」

「うーん、やっぱりまだ汗をかき足りない。もう少しやらせてちょうだい」

「遊びじゃないんですから」

「わたしは、下手?」

「いや、上手いですよ」

「そう」

「死なない程度にしてくださいね」

「加減が難しいの」

「まだ夜は長いです。焦らずじっくりやりましょう。ダメです。もっと腰を据えてやらないと。さっきは僕も弱気なことを言ってしまいました。今では反省していますよ。徹底的にやって、こいつの口を割らせないと……」

「真面目ね」

「僕も早く一人でできるようになりたいですから」



問二 赤の他人になりきる

 

 私たち割込師は、生き馬の目を抜く世界だ。

 今朝も、私は五番車両の待機列からつかず離れず適切な距離をとっていた。朝の7時19分出発の淀屋橋行き特急列車、過去の経験によれば待機列の前から五人目までの位置に割りこまなければ席に座ることはできない。現在、列に並んでいるのは十五人以上、車両はあと四分で到着する。この時間が私たち割込師にとって最も重要だ。車両が到着してから慌ててポジションを確保しているようでは遅すぎる。まずは割り込むために待機列から適切な距離をとらなければならない。近すぎても遠すぎてもいけないのだ。近すぎれば、列に並ぶ人間は割込師を警戒し、列の間隔を詰めてしまうだろう。逆に遠すぎれば、割り込むタイミングを逸してしまう。割り込むのに適切なタイミングとは、車両が到着する時である。列に並ぶ人間たちは、車両到着の瞬間は乗り込むことしか考えられない。だから、虚を突くことができる。私たちが割り込んでも、彼らは咄嗟のことで反応できないのだ。もしも列車が到着する遥か前から割り込んでしまったら、後ろに並ぶ人間に怒られてしまうだろう。いい大人になって、他人から怒られるのは耐え難い屈辱だ。

 到着まであと三分。私は今のところ、絶好のポジションをとれている。待機列から近すぎない場所で、しかも柱の陰に隠れている。誰も私に気付けない。次に考えることは、列の何人目に割り込むかということだ。私は柱の陰からチラチラと様子を窺う。列の三人目のおばさん、あいつはヤバい。割り込んできたら刺し違えてでもやってやるという気迫がみえる。あのおばさんの前に割り込むことはできない。ならば、四人目のサラリーマン風の男はどうだ。彼は隣の同僚らしき男と世間話をしている。絶好だ。世間話に気を取られて割込みへの意識が薄い。しかも、会社の同僚らしき人間と一緒にいる手前、割り込まれたとしても、世間体があるので暴力的な手段に訴えることはできないはずだ。

 あと一分。しまった。考え過ぎてしまった。もう特急列車は、駅ホームから視認できる位置にまで近づいていた。ここからが本当の割込師の勝負だ。このホームには、私以外に二人の割込師が潜んでいた。私から見て反対側の柱に隠れている巨漢は、パワープレイの哲! 彼は自身の鍛え抜かれた絶対的なフィジカルを活かして割込みを行う。しかし、その肉体があだとなり、俊敏性では私が勝っていた。ポジショニングに差がなければ、私の勝ちは揺らがないだろう。そして今、ホームにあがる階段を思わせぶりな様子で登ってくるのが、死にかけのお菊! 見た目はいかにも活力の感じられない老婆であるが、割込みの腕はそうとうなものだ。何よりも割込みに対してなんの罪悪感も抱いていない。天性の割込師である。

 さあ、運命の瞬間が来た。死にかけのお菊がぬるりとスピードを上げた。反対にパワープレイの哲は出遅れた。やはり、勝負は私と死にかけのお菊で決まりそうだ。車両のドアが開いて一斉に乗客が降りて来た。今だ。今、この瞬間に燃え尽きたっていい。

 

問三 ほのめかし

〈直接触れずに人物描写〉

 赤い小さなポストの横には、百日紅がピンクの花をつけていた。

 隣に植えられているのは木蓮だ。季節が違えば、卵ほどの大きさの白い花をつけるはずだった。庭の中央には木製のベンチが置かれていて、取り囲むように花壇がしつらえられていた。丸く紫の花は千日草、炎のように赤い花はサルビア、白い花の群生はペチュニアだった。それらにはつい先ほど水をまかれたようで、陽光の中でいっそう生き生きとしていた。花々の間には、所々で陶器製の七人の小人が顔をのぞかせていて、庭を訪れた客たちの目を楽しませた。

 そのまま奥に進んで家の裏手に回り込むと、日当たりのよい表とは打って変わり、空気もひんやりと湿っていて地面にはドクダミが生えていた。そして、その一角には割れてしまって使われていない素焼き鉢が積まれていた。実は陶器片の中には肌色のものも混ざっているのであったが、それを見てはじめて七人の小人が六人しかいなかったことに思い当たる人もいるはずだ。さらに隣家との塀の間を通って進めば、少し開けた場所に出ることになった。その場所は、四角く雑草が引き抜かれていて、畝が三つほど並んでいる畑であった。しかし、そのつつましやかな畑には何も植えられていなかった。ただ隅の方に、人間の背丈ほどもある緑がひょろりと立っていた。お化けの草のようで、一見して正体をつかみかねる人が多かったが、近づいてよくよくみれば、それが成長しすぎたアスパラガスであると誰でも気がつくことができた。



〈語らずに出来事描写〉

 虫の音が聞こえる。西の空は赤くなって、東の空から少しずつ夜が迫っていた。急に涼しくなった風が吹いて、池の水面が波立った。陸上で日向ぼっこをしていた亀たちも、いそいそと水の中に帰っていき、水面に浮かぶ水鳥の群れも身を寄せ合っていた。そういった見なれた光景の中にあって、一つだけ奇妙なものが池の真ん中に浮かんでいた。それは、ひっくり返った鯨が白いお腹を見せているようだった。しかし、それが風に吹かれて向きを変えると、黒いペンキで「14」と書かれているのが見えるようになって、白い手こぎボートがひっくり返っているのだとわかった。だとすれば、隣に浮かんでいる木の板のようなものはオールだろう。

 水面にボコボコと空気の泡がたった。その後には、子供用の運動靴が浮かんできた。しかし、それ以外には何も浮かんでこなかった。いまや完全に陽は沈んで、虫の音に加えて蝙蝠の羽ばたきが聞こえるようになったが、それ以外は全くの無音と言ってよかった。池の桟橋には、懐中電灯を持った大人たちが集まってきていた。しかし、彼らは水面を照らすだけで何もできなかった。左右を行ったり来たりする懐中電灯の光は、人魂のようにも見えた。

 

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』練習問題:第8章

第8章:視点人物の切り替え

 

 

問一:声の切り替え


 ヨネコは、兄の後ろを歩きたくなくて別の道を選んだ。墓石の列は、不規則な並びをしていた。市営ではなく町内会が管理している墓地は、およそ計画性のない区画割りがなされていた。彼女の身体よりも大きい墓石もあれば、思わず蹴飛ばしてしまいそうなほどの控えめなものもある。その形も一般的な角柱型のものもあれば、西洋風のもの、自然石をそのまま用いたものもあった。そのように、良く言えば個性を尊重して、悪く言えば行き当たりばったりに作られたものだから、墓石の間を縫うように走る通路も巨大な迷路のように複雑な様相を呈していた。

 イサムは、妹のヨネコがいきなり別の道を選んだので驚いた。彼から見て並走するように別の道を歩む妹の横顔は前だけを向いていた。たしかに、蜘蛛の巣よりも入り組んでいる通路は、一つの墓にたどり着くのにも複数通りの道がある。だから、全員が同じ道を通っていかなければいけない道理はなかった。しかし、結局のところ、妹が別の道を選んだのは他人と歩調を合わせるのが気に喰わないからなのだと、イサムにはわかっていた。
 その時、彼が手に持っていた花束から、百合の花が一輪こぼれ落ちた。イサムはしゃがんで拾おうとしたが、それでこの墓地はずいぶんと雑草が生えていることに気がついた。町内会が管理しているので手入れが行き届かないのは仕方がないのだが、このように荒れた土地に幼くして亡くなった弟が埋まっているのだと思うと、少し哀れにも思えた。

 ヨネコの視界の端には兄の姿が映っていた。墓石と墓石の間からとぎれとぎれに見えるものだから、その姿はどこか古いフィルムの映画のように現実感を欠いていた。それもそうなのだ。所詮、兄とは亡くなった弟の墓参りでもないと会うこともないのだから、ほとんど他人のようなものであった。ふと、先ほどまで視界の端でちらついていた兄の姿が見えなくなった。彼女があわてて周りを見渡してもどこにも見当たらない。弟のように兄までも消えてしまったようで、ヨネコは急に不安になった。彼女は通路でもない墓地の敷地を踏み越えて、兄が先ほどまでいたはずの隣の通路に移った。そこには、ちょうど墓石の影になる位置で、彼女の兄がしゃがみこんで何か考え事をしている姿があった。

 イサムが感傷に浸っていると、目の前に誰かが飛び込んできた。それは妹のヨネコだった。わざわざ他家の墓の敷地を踏み越えて、隣の通路からこちらへ移動してきたらしかった。なんて無作法で罰あたりか、叱りつけてやるところだったが、妹の顔は少し泣きそうだったので、イサムは何も言えなかった。


問二:薄氷


 以前よりも広くなっているような気がする兄の背中が本当にうっとおしくて、ヨネコはあえて別の道を選んだ。墓石の列は、不規則な並びをしていた。市営ではなく町内会が管理している墓地は、およそ計画性のない区画割りがなされていた。彼女の身体よりも大きい墓石もあれば、思わず蹴飛ばしてしまいそうなほどの控えめなものもある。その形も一般的な角柱型のものもあれば、西洋風のもの、自然石をそのまま用いたものもあった。そのように、良く言えば個性を尊重して、悪く言えば行き当たりばったりに作られたものだから、墓石の間を縫うように走る通路も巨大な迷路のように複雑な様相を呈していた。さっきまで後ろをついてきていた足音が消えて突然真横に移動したことに、イサムは気がついていた。彼が横をみると、妹のヨネコの姿が墓石と墓石の間に見えた。こちらに一言かけたり振り向くこともしないのかと、イサムは深いため息をついた。たしかに、蜘蛛の巣よりも入り組んでいる通路は、一つの墓にたどり着くのにも複数通りの道がある。だから、全員が同じ道を通っていかなければいけない道理はなかった。しかし、結局のところ、妹が別の道を選んだのは他人と歩調を合わせるのが気に喰わないからなのだと、イサムにはわかっていたのだ。
 その時、彼が手に持っていた花束から、百合の花が一輪こぼれ落ちた。イサムはしゃがんで拾おうとしたが、それでこの墓地はずいぶんと雑草が生えていることに気がついた。町内会が管理しているので手入れが行き届かないのは仕方がないのだが、このように荒れた土地に幼くして亡くなった弟が埋まっているのだと思うと、彼には少し哀れにも思えた。視界の端でも目障りだと、ヨネコは思っていた。所詮、兄とは亡くなった弟の墓参りでもないと会うこともないのだから、ほとんど他人のようなものであった。すぐに追い抜いて視界の端にも映らないようにしようと思った。そこで、ヨネコは、追い越すためにも兄の姿を確認しようとしたのだけれど、その姿が見えなくなっていた。彼女はあわてて周りを見渡した。弟のように兄までも消えてしまったようで急に不安になった。彼女は通路でもない墓地の敷地を踏み越えて、兄が先ほどまでいたはずの隣の通路に移った。そこでちょうどイサムは感傷に浸っていた。突然、ザッと玉砂利を踏み蹴る音が目の前でして、彼は思わず顔をあげた。そこにいたのはヨネコだった。わざわざ他家の墓の敷地を踏み越えて、隣の通路からこちらへ移動してきたらしかった。なんて無作法で罰あたりか、叱りつけてやるところだったが、妹の顔は少し泣きそうだったので、イサムは何も言えなかった。

【偶然とミステリ】ハリー・スティーヴン・キーラー『ワシントン・スクエアの謎』

今回は、関西ミステリ連合OB会の読書会用レジュメとして、ハリー・スティーヴン・キーラー『ワシントン・スクエアの謎』をとりあげる。

 

まずは、簡単にハリー・スティーヴン・キーラーの日本における受容について取り上げよう。

『ワシントン・スクエアの謎』が刊行された直後は、論創社も威勢のいいことを言っていたのだけれど、残念ながら2020年2月以降続報はないようだ。

 

 

しかしながら、【奇想天外の本棚】の方で救われそうな未来が見えてきたっぽい。捨てる神あれば拾う神ありという状況である。

 

 

 

 

1.ハリー・スティーヴン・キーラーとは

二つ名:

史上最低の探偵小説家、探偵小説界のエド・ウッド

 

経歴(解説より):

1890年のシカゴ生まれ、父親を早くに亡くし、芸人相手の下宿宿を経営していた母親に育てられる。(母親はその後も三回結婚している。)

少年時代のキーラーは電気工学関係の学校に通いながら短編小説を書いて大衆雑誌に寄稿していた。ところが、二十歳になったところで母親によって精神病院に送り込まれることになる。一年後に退院したキーラーは鉄工所で電気工とした働く傍ら小説の執筆をつづけ、生涯で七十冊を超える長篇作品を残した。

 

ここまでは、巻末解説を読めばわかることである。ここからは、彼が本作意外にどのような作品を世に送り出していたのか、それを確認しようと思う。

※もちろん原文を読んだわけはなくて、キーラーマニアの柳下毅一郎の著作を参考にしました。これらの作品が訳される日を願って。

 

『The Case of the 16 Beans』

主人公ボイスは、祖父から遺産として豆を十六粒相続する。ボイスは、中国の叡智を集めた本「出口」を頼りに、豆の暗号解読に挑む。

 

『The Mysterious Mr.I』

本書の主人公は出会う相手ごとに違う名前を名乗る。例えば、ある時は古銭研究家であり、彼の話や経歴は嘘ばかりである。本書を読み終わっても彼の本名も、その目的さえもちっともわからないままである。

 

『The Riddle of the Travelling skull』

主人公が市電で鞄の取り違えをしてしまい、取り違えた鞄には頭蓋骨と銃弾、それに一篇の詩が入っていた。

 

『The Way Cut』

キーラーの作品に度々登場する「古代中国のすべての叡智を集めた本」を再現したものだ。収録内容例としては、「柿を植えるのにふさわしいのは、歯が抜ける前である」などがる。

 

 

 

 

2.偶然に起こったこと、そしてミステリの先

※ここからはネタバレ注意

 

さて、ミステリマニアの心理には、偶然を避けようとする心と歓迎する心の二つがあるように思う。

偶然を避けようとするのは、それがミステリおけるゲーム性(フェアネス)、さらにはリアリティを毀損する可能性があるからだ。過剰な偶然を推理に盛り込むことは、ミステリにとって破滅の道だ。例えば、ミステリ界において最もこすられてきたのが「トンネル効果」である。ほとんど奇跡というべき現象であるが、量子力学的な思考によれば人間が壁をすり抜けることも可能になしかし、しかし、通常のミステリにおいては、「トンネル効果」が真剣に検討されることはない(逆説的な意味で検討される作品はいくつかあるが)。なぜなら「トンネル効果」まで実現可能なものとして検討してしまうと、あらゆる密室殺人がそれで説明がついてしまうからだ。そこにおいてもはや、作者と読者、犯人と探偵のゲームは成立しない。またあり得ない偶然が都合よく起こることは、作品のリアリティすらも下げてしまうことになる。

では、ミステリマニアはあらゆる状況で偶然の介入を拒むのかと言えば、そういうわけではない。むしろ、ほどよい偶然が起きることは、むしろ望まれていると言えるだろう。例えば、「プロパビリティの犯罪」と呼ばれるようなミステリ群は、意図的に偶然性を犯罪計画の中に織り込んでおく様式である。また、犯人が長大な犯罪計画を練れば練るほど、計画の実行段階において偶然が入り込み、犯人が計画に修正を強いられることが常である。それは、事件が複雑化すればするほど、偶然の要素が入った方がリアルだからだ。逆に偶然の全く起こらない物語はどこか作り物すぎるのだ。

つまり、ミステリとは、偶然の手綱をとってコントロールしようと苦心してきた文芸ジャンルだと言える。しかし、ハリー・スティーヴン・キーラーはそういったことに全く頓着せずに創作を行っていたようだ。

今作の作中で起こった驚くべき偶然を列挙してみよう。

 

・主人公ハーリングは、たまたま盗みに入った廃屋の中で死体を見つけた。

ハーリングが犯行現場から逃げようと飛び乗った車を運転していた女は、たまたま殺人事件の関係者だった。

・犯行現場付近で車に運転していた女は、ハーリングが過去に命を救った女性ヴァンデルホイデンだった。

・廃屋で殺されていたのは、自分が探していたS・P・ボンドだった。

・ヴァンデルホイデンと探偵モーニングスターは以前から事件現場を見張っていたが、事件当日だけ偶然の事故によって見張ることができなかった。

・犯行の凶器に使われたものは、ヴァンデルホイデンが前日にたまたま落としたものだった。

・探偵モーニングスターは、ワシントン・スクエアのホームレス仲間とたまたま同一人物だった。

ハーリングは新聞広告で募集されている五セント白銅貨をたまたま持っていた。

ハーリングが五セント白銅貨と交換して手に入れたのは偽札であり、その偽札は全国的なニュースになっている偽札事件と偶然同一のものだった。

・遺産の隠し場所を示す手掛かりである五セント白銅貨は、奇妙な偶然から新聞売りの手に渡って行方不明になってしまった。

ハーリングと探偵モーニングスターは、それぞれの理由で犯行現場に忍び込んで偶然に再会することになった。

ハーリングがルビーを渡せと何者かから脅されたときに、たまたま偽物のルビーを持っていたので切り抜けられた。

・偽札の専門家デヴォンツリーは、ハーリングが「S・P・ボンド」と書かれた封筒を探す原因になった男だった。しかしこれは「南太平洋(S・P)ボンド」を意味していた。

 

これらの偶然の連鎖をもって、本作をただのご都合主義的な失敗作ととらえる向きもあろう。しかし、これら偶然の連鎖がかえって論理で支配できない存在を意識させ、ただのご都合主義とは違った妙味を生み出している。そして、物語のラストにおいて、これらの蜘蛛の巣状に構築された偶然の蓄積は空と化し、蜘蛛の巣の外側からまったく別の真犯人が立ち上がってくることになる。これをどんでん返しととらええるか、いままでの積み重ねを無駄にしてしまったと考えるか、どちらにしても論理の外側にいる存在が本格ミステリを破壊してしまう本作は、一種のアンチ・ミステリ的魅力にあふれた作品だと言えよう。また、本書を機会にミステリと偶然の関係性について思いを巡らせてみるのも一興かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

あと関係ないですが、私の同人誌寄稿作品を百合文芸4に応募したので、ご覧いただけますと幸いです。

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