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雑文置き場

読書系サークル新入生に薦める、君の脳を破壊するかもしれないホラー10選

 

 四月中には書いて投稿しよう思っていたら、五月も終わろうとしていた……

 あまたの若者が大学の門をくぐり、どのサークルに入ろうかと新歓イベントに参加する時期である。このGWにどのサークルに入るをじっくり考えて決断した人もいるだろう。もしかしたら読書系サークルに入った(入ろうとしている)人もいるかもしれない。そうした新入生が有意義な読書生活を送るために、私が厳選したホラーを10作品をご紹介したい。それも読むだけで脳になんらかのダメージを与えるような本をすすめたい。なぜかと言えば、読書系サークルで生き残るためには脳を鍛える必要があるからだ。骨折した骨は、治る過程でより強くなると聞いたことはないだろうか。脳も同じである。君も脳を積極的に破壊して、最強の読書系サークル新入生になろう。

 

 

【選定基準】

●「怖さ」や「残酷さ」よりも、読むことで脳に強い衝撃を与える作品であるかどうかを基準とする。

●手に入りやすいかどうかは考慮しない。自分が本当に優れていると思うものを選ぶ。

●ホラーの定義にも頓着しない。ただ、バッド・テイストな話であることだけは保証する。

 

 

 

 

つきだしの短編2作

チャック・パラニューク「はらわた--聖ガット・フリー語る」(ミステリマガジン2005/ 6 No.592)

 

息を吸って。

肺にたまるかぎり空気をためるんだ。

この物語はあんたが息を止めていられるだけ続く。

 本作は、私たちに語りかけるようにはじまる。朗読ツアーで読まれると毎回何十人もの失神者を出したということで伝説的な作品だ。そのエピソードがどの程度まで誇張なく真実なのかはわからないが、読者がそう信じたくなる程度にはインパクトのある作品であることは間違いない。重厚な印象さえ受けるタイトルではあるが、その内容はマスターベーションに命をかけた男たちの遍歴を綴った小話であり、下品を究めた聖人伝である。この小説は読者を不快な気持ちにさせるという以外の機能を持たない。最近は何かとチャック・パラニューク作品が復刊されるので、本作も手軽に読めるようになることを期待する。

 

池田得太郎「家畜小屋」 (現代文学大系〈第66〉現代名作集)

 屠殺場で働く五郎は、体の衰えによって失敗が続き、屠殺から家畜の糞掃除に仕事を引き下げられてしまう。職場の同僚や、かつては自分を恐れていたはずの家畜にさえ馬鹿にされるようになった五郎は追い詰められていき。ある日、給料が減ったことで妻と口論になった五郎は、「豚にも劣るくせに!」「口惜しかったら豚になってみろ!」と罵倒するのであったが、それが二人の奇妙な新生活のはじまりであった。

 中央公論新人賞佳作に入選し、特に三島由紀夫から絶賛を受けた怪作である。五郎の視点を通して描かれる血と糞尿に塗れた世界は、圧倒的な生理的嫌悪感をもって読者に迫ってくる。しかし、本作の破壊力はそこだけにとどまらない。人間を辞めた妻が豚と性的関係を持つようになってからの展開がとにかくすさまじい。妻に拒絶される五郎の惨めさや悔しさが、非常にねばっこい文体で綴られており、寝取られこそが最も効率的に脳を破壊するということを真に理解できる小説である。

 

 

 

 

海外作品4作

リチャード・マシスン『地獄の家』 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

 メイン洲の深い森に建つベラスコ・ハウス、かつてここでは淫蕩と残虐のかぎりが尽くされ、今は怨霊がとり憑いた地獄の家になっていた。その館の謎を解くべく、専門家である男女4人が館に踏み込んだ。バレット博士は超心理学者として転換器を使用し、フローレンスは霊媒として降霊会などを行うのだが、館の中に渦巻く邪悪は人間の想像を超えて襲いかかってくるのであった。

 マシスンは、無機物が敵意を持って襲い掛かってくる恐怖を好んで題材にした。スティーヴン・スピルバーグが映画化した『激突!』が代表例になるだろう。トラックそのものに殺意が宿っているような独特の恐怖を描いており、人間ではない無機物までもが自分に対して敵意を抱いているという被害妄想的な精神が、他のホラーにはない恐怖を生み出している。幽霊屋敷という定番のシチュエーションであっても、マシスンのそうした感性を通すと、充分に読者の脳を揺さぶることができるのだ。家という無機物に宿っている悪意に襲われる登場人物たちの姿は凄惨というしかなく、古典的な幽霊屋敷とは一線を画す肉体的な暴力に溢れている。

 

メイ・シンクレア『胸の火は消えず』 (創元推理文庫)

 メイ・シンクレアはヴィクトリア朝に生まれただけあってどこか古風なゴースト・ストリーを書く作家ではあるが、一方で女性の自由や性に対する問題意識を持った非常にモダンな感覚を備えている人物であったとされている。女性解放運動にも参加し、のちに心霊学にも傾倒していく彼女の作品は、複雑な女性心理を扱うことを得意としており、その作品は時に異様な禍々しさを放っている。短編集である本作は、すべての収録作が古風でありながら、どこか風変わりで他では読んだことがないような心霊ホラー小説に仕上がっている。

 収録作の中では、特に「仲介者」という短編が嫌な後味を残す。下宿先に子供の幽霊がでてくるという典型的なゴースト・ストーリーの体裁をとっているが、その幽霊には不可解なところがあり、霊感のある主人公が心霊現象の謎を解き明かしていくことになる。子供の幽霊が現れる真の理由が明らかになった時、今まで見えていた平凡なゴースト・ストーリーがひっくり返ってグロテスクな人間関係が浮かび上がることになる。家族関係の中に地獄を描いた作品である。他の収録作にも共通するが、読むとぐったりするような疲弊感がある。

 

マリアーナ・エンリケス『わたしたちが火の中で失くしたもの』(河出書房新社

 アルゼンチンのホラーのプリンセスと呼ばれるマリアーナ・エリンケスの作品は、ボルヘスコルタサルが作り上げたアルゼンチン幻想文学の系譜、あるいは彼女自身が評伝を書いたシルビーナ・オカンポからの流れを感じる作家である。しかし、彼女は最も敬愛する作家としてヘンリー・ジェイムズ、シャーリー・ジャクスン、スティーブン・キングの名をあげており、ホラーの血が存分に交じり合っている作家でもある。

 麻薬に溺れる若者たちがアルゼンチンの社会情勢とともに破滅へと向かっていく「酔いしれた歳月」、アルゼンチン社会における女性への暴力を恐怖小説へ転換した表題作「わたしたちが火の中で失くしたもの」など、本書には土地と生活に結び付いた恐怖が描かれている。特に、巻頭を飾る短編「汚い子」は、アルゼンチンという土地そのものに染み付いた腐敗と狂気の中に、一人の女性が巻き込まれて陥穽に落ち込んでいくところが恐ろしい短編である。狂気が恐ろしいのは当たり前であるが、彼女が描く作品には生活に裏打ちされた狂気が描かれており、それが妙な説得力をもって迫ってくるのだ。

 

イアン・バンクス『蜂工場』(河出文庫

 英国本土と橋でつながっているスコトットランドの島に、父とふたりで住む十六歳の少年フランク。母親はフランクを産んですぐに失踪し、島を訪れる者はほとんどいなかった。フランクは呪術的な儀式に没頭し、秘密基地で動物を虐殺する日々を送っていた。そんな中、腹違いの兄エリックが精神病院から脱走したとの報を受け、フランクは大きな衝撃を受けることになる。

 特にこの小説がホラーとして優れているのは、人間の気が狂う瞬間をとらえていることにある。(そもそも正気の人間は一人も登場しない小説ではあるが、、、)主人公の兄エリックが精神病院に入れられるきっかけになった事件に関する描写を読んで衝撃を受けない読者はいないだろう。「こんなことがあれば気が狂っても仕方ない」と万人に納得させる筆力がある。全人類に読んでほしい名作である。

 

 

 

 

国内作品4作

村田 喜代子『望潮』(文藝春秋

四谷怪談」が典型ですけれども、幽霊って、最初は幽霊じゃないんですよ。生きた人間として普通に別の生きた人間と関係を持っていて、ある時、死んじゃう。幽霊になって、そこから生きた人間と幽霊の関係というふうに変質していくんですよね。

黒沢清ダゲレオタイプの女』インタヴュー

 これは映画監督の黒沢清の言葉であって本作とは何の関係もないが、人間が幽霊になっていく過程を描くことに恐怖を見出した視点は示唆に富んでいる。本書はまさに人間が幽霊に変わっていく瞬間を捉えることに成功している作品の宝庫で、玄界灘の小島で腰の曲がった老婆が箱車を押しながら車に体当たりを繰り返す「望潮」、マンションの屋上から墜落死する女の姿を忘れられない人たちを描く「浮かぶ女」、高速バスの事故に巻き込まれ山中に取り残された男女が生き残るためにあがく「水をくれえ」など、知らぬ間に人間が幽霊に変わっていく恐ろしさを堪能できる。

 

吉田知子『お供え』(講談社文芸文庫

いろいろの異常を書き過ぎてはいないだろうか。

 これは第六十三回芥川賞を受賞した「無明長夜」に対する川端康成の選評である。批判的な意味合いで発せられた言葉ではあるが、吉田知子作品の魅力をうまく捉えているようにも思える。とにかく異常なことが起こりすぎるのだが、ディテールの集積によって読者にそうした異常を受け入れさせてしまうところに彼女の力量があるのだろう。

 そうした作品群の一つの到達点として本書がある。蕨を摘んでいるうちに死者たちの祭りに紛れ込んでしまう「迷蕨」、叔母の家に向かう道すがら死者が同行している「海梯」、未亡人が意図せず神様に祭り上げられていく「お供え」など、死者と生者、狂気と正気が入り混じる悪夢的な短編が七つ収められている。特に、最後に収められている「艮」はディテールの集積と一人称の語りによる表現が圧倒的で、時間や空間を超えて交じり合う無限循環的な世界は、短編でありながら『ドグラマグラ』に匹敵する狂気を伝えている。

 

小林泰三『人獣細工 』(角川ホラー文庫

 日本ホラー小説大賞の精神的中心は小林泰三である。(※ただの個人的偏見。)

 小林泰三は「玩具修理者」で鮮烈なデビューを果たし、単行本に併録された「酔歩する男」ではホラーだけでなくSF的センスの高さを証明してみせた。その後もホラー、SF、ミステリとジャンル横断的な活躍を見せるわけだが、あまりに多芸すぎるゆえにかえって純粋なホラー作家としての資質に目を向けられることは少なかったかもしれない。では、彼のホラー的センスが最も強く示された作品は何だったのかと言えば、それは「人獣細工」だと思う。幼い頃から繰り返し彘(ぶた)からの臓器移植手術を受けていた少女の内面を一人称の語りでみせた作品である。自分が人なのか彘なのか悩む主人公は、アイデンティティーの危機というホラーにおいて普遍的なテーマを扱っているわけだが、そこに生理的な恐怖を持ち込んでいるところに作者の特色がある。「わたしは四六時中、彘の唾を飲み続けている」という一文のさりげない気持ち悪さは、今読んでも強烈だ。

 

矢部嵩保健室登校』 (角川ホラー文庫)

 日本ホラー小説大賞には、小林泰三から矢部嵩に流れる黒い水脈がある。しかし、いくら精神性につながりがあっても、この二人は創作姿勢は正反対だ。つまり、小林泰三はSFを書くためにホラーという形を借りた作家で、矢部嵩はホラーを書くためにSFの形を借りた作家であるということだ。これは私の勝手な実感だが、その見方が正しいと仮定して二人の作品にどのような違いがあるのかを考えてみたい。小林泰三のホラーは謎解きのようでもある。まずはじめにホラーとしての異常な状況(謎)が提示されて、その謎にSF的に理屈の通った解釈を加えるということだ。先に紹介した「人獣細工」はその典型だろう。なぜ父親は彘(ぶた)と少女の身体を入れ替えることに執着したのかというホラー的謎に対して、臓器移植や遺伝子組み換えの技術的な面を突き詰めていくことでSF的論理から導かれた答えが読者に与えられる。ホラー的状況を描くことよりも、その状況にSF的な理屈をつける方に興味が寄っているのだ。対して、矢部嵩はどうか。代表作『〔少女庭国〕』では明らかにSF的論理よりもホラー的状況の方が先にある。石造りの無限に続く回廊に暮らす人たちの生活を描くということに、この小説の主眼はある。まず悪夢的な状況を設定して、その状況を成立させるためにSF的論理を流用していると言える。あくまで、理屈をつけることよりも異常な状況を描くことに淫している。

 ここまで二人の違いについて書いてきたが共通している部分もある。それは、ホラー的状況を押し通すためにある種の「論理」が利用されることである。しかし、小林泰三が使う論理が非常に筋の通ったものであることに対して、矢部嵩のそれはたいてい歪に曲がっている。そうした曲がった論理の最高峰として『保健室登校』をあげたい。本書に収録されている短編はどれも最終的には手足がもげたり首がとんだりスプラッター的な悲劇に帰着するのだが、その結末に至る論理の飛躍と屈折こそ見所である。特に、表面的には生徒に対してストーカー的に付きまとっていた先生が破滅する「期末試験」を、異常な論理を扱ったホラーの傑作として推したい。