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雑文置き場

「実は死んでいた」系映画のすすめ

 

「実は死んでいた」系映画とは何か。

それは、主人公がある時点で死んでしまっているのに、自身が死んでいることに気づかずに生活を続けているというプロットを持った映画のことである。

様々な作品で使い古されており、今更何の新鮮味もないはずなのだが、私はどうにもこのタイプの話が好みなようだ。

というのも、今話題の『ゴジラ-1.0』を鑑賞している最中にもそのことばかり考えてしまっていたのだ。『ゴジラ-1.0』が「実は死んでいた」系映画だったわけではないのだが、むしろそうなってくれた方が面白いのになぁと思いながら鑑賞していた。

ゴジラ-1.0』はCG演出こそ素晴らしいが、人間ドラマの部分はかなり雑なところもあり、正直に言ってツッコミどころを探せばいくらでも見つかる作品である。それにもかかわらず、本作がこれだけヒットしているのは、ゴジラの魅力は言うに及ばないにしても、死んだように生きている主人公・敷島の人物造形に共感する人が多い時代だということだろう。

そこに共感できるなら「実は死んでいた」系映画をもっと観ようぜ、というのが本記事の趣旨である。しかし、そうは言っても、「実は死んでいた」系映画の紹介をするという行為自体が重大なネタバレになるので、別にかまわないという人だけが読み進むようお願いしたい。

 

 

 

ここより先、ネタバレ領域

 

 

 

チャールズ・ヴィダー監督『The Bridge』1929年

そもそも「実は死んでいた」系映画の元ネタとは何だろうか。

それは、おそらくビアス「アウルクリーク橋の出来事」だと思われる。作家カート・ヴォネガットをして、アメリカ文学の短編小説の中で最も優れたものの一つと評させた傑作であるが、1929年にチャールズ・ヴィダー監督の手で『The Bridge』というタイトルで映画化されている。パブリック・ドメインになっているのでユーチューブで手軽に見ることができてありがたい。

 

あらすじはこうだ。アラバマ州北部の橋の上で、ペイトン・ファーカーは後ろ手に縛られ、首にはロープが巻き付けられていた。彼は南軍の支持者であり、北軍の兵士たちによってまさに絞首刑にされようとしていた。足元の板が外された瞬間、彼は首にかかってたロープが切れて川に落ちた。彼は必死になって敵の銃弾をかいくぐり逃亡しようとするが……。ペイトン・ファーカーは、北軍の兵士によって処刑される瞬間に、運良く助かった自分を想像していただけだった。現実の彼は、橋の上でロープに吊られて静かに揺られていたのだった。

 

この映画で描かれていることのほとんどは、主人公がこうなってほしいと妄想していることにすぎないのだ。それゆえに、この映画は主人公にとって都合よく話が進むことになる。主人公が今にも処刑されようとする瞬間、”運よく”首のロープが切れて、追手のが放った銃の弾は主人公を避けるように外れていく。

こうしたご都合主義的な展開は通常であれば興ざめだが、「実は死んでいた」系映画である本作にとっては、酷薄なラストの衝撃を高める効果を発揮しているのだ。

 

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ハーク・ハーヴェイ監督『恐怖の足跡』 1962年

「実は死んでいた」系映画の元ネタは「アウルクリーク橋の出来事」かもしれないが、現在にまで直接的な影響を与えている映画作品の決定版と言えば、ハーク・ハーヴェイ監督『恐怖の足跡』である。

 

あらすじはこうだ。カンザスの田舎町。2台の車がものすごいスピードで小道を駆け抜けていく。若い男女が乗った車が、お互いにスピード比べをしているのだ。橋に差し掛かったところで、主人公・メリーが乗った車が川へと転落してしまう。警官たち捜索も空しく、川に沈んだ車は見つからず、ただ一人、メリーだけが事故から生還したのであった。事故の陰惨な記憶を忘れるために、彼女は別の町に移り住むことにした。新天地でオルガン奏者としての職にもありついたが、彼女の周りには不気味な男の影が常に付きまとっていた。さらには謎の廃墟の遊園地を夢見るようになり、様々な怪奇現象にも悩まされることになる。ついには、町を出る決意をした彼女だったが……。

 

本作は、「実は死んでいた」系映画の古典的名作であることに留まらず、ホラー映画としても非常に見ごたえがある作品になっている。これに影響されてジョージ・A・ロメロ監督が『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』('68)を作ったとも言われるが、それもむべなるかな、今見ても抜群に恐ろしい映画である。

何よりも恐ろしいのは、主人公・メリーのを追い詰める不気味な男の存在である。彼は、メリーのゆく先々で姿を現し、彼女を怯えさせ、いつの間にか姿を消している。彼の正体はラストになって、本当はすでに死んでいるメリーを黄泉の国に引き戻そうとする死者であったことが明かされる。その正体はいささか拍子抜けかもしれないが、こちらを怖がらせるだけ怖がらせて、なかなか手を出してこない焦らしっぷりには感心するほかない。

 

 

 

エイドリアン・ライン監督『ジェイコブス・ラダー』1990年 

「実は死んでいた」系映画は、時に人間の死生観をあぶりだす。脚本家のブルース・ジョエル・ルービンは、「死の受容」というテーマに取り組み続けた作家だったが、その決定版とも言えるのがエイドリアン・ライン監督『ジェイコブス・ラダーである。

 

あらすじはこうだ。1971年、兵士としてベトナム戦争に参加していたジェイコブス・シンガーは、仲間たちと休憩していたところを謎の敵兵に奇襲される。部隊の仲間たちが次々と倒れる中で、ジャングルに飛び込んだジェイコブは何者かに腹部を刺されてしまう。次の瞬間、ジェイコブはニューヨークの地下鉄の車内で目を覚ますことになった。負傷により名誉除隊となったジェイコブは、母国に戻っても過去の悪夢にさいなまれていたのだ。子供を失ったことをきっかけに、妻とは別れて新しい恋人のジェシーと同棲するジェイコブだったが、戦争のトラウマは癒されることなく、過去の記憶だけでなく、グロテスクな幻覚まで見るようになってしまった。ある日、ベトナムでの戦友と再会したジェイコブは、部隊の生き残りが皆、自分と同じ症状に苦しんでいることを知らされる。自分たちは戦地で何か特殊な薬を摂取させられたのではないか。政府の陰謀を疑い始めるジェイコブであったが……。

 

結局のところ、主人公のジェイコブが抱く政府の陰謀論はまやかしで、この映画はベトナムの戦地で命を落とした男が自分の死を安らかに受け入れるまでの走馬灯に過ぎないのだ。この映画を通して脚本家のルービンは、自分の死を受容できない状態が地獄であり、死を受け入れる心の準備をすることこそが天国への道だと、説いているわけだ。

私が『ゴジラ-1.0』を鑑賞中に、「実は死んでいた」系映画のことを考えてしまったのも、おそらくこの映画のことが頭の中にあったからだろう。ジェイコブが見る悪夢や幻覚は、敷島が対決するゴジラと、戦争体験のトラウマを象徴する存在という一点において同一の役割を持っている。まあしかし、映画の発しているメッセージは真逆と言ってもいいところが興味深いのだが。

 

 

 

ポール・オースター監督『ルル・オン・ザ・ブリッジ』1998年 

「実は死んでいた」系映画の主人公たちは、どうして自分が死んでいることに気がつかないのだろうか。それはたいていの場合、彼(彼女)のそばには魅力的な恋人がついていて、現世に引き留めておこうとするからだ。それこそ『ジェイコブス・ラダー』に登場する恋人・ジェシーは、主人公を地獄に捉えようとする悪魔として描かれていたのだが、主人公を誘惑する恋人が必ずしも邪悪なものとは限らない。ポール・オースター監督『ルル・オン・ザ・ブリッジ』に登場する恋人は、まさに主人公にとっては天使のような女性として描かれている。

 

あらすじはこうだ。ニューヨークのクラブ、サックス奏者のイジーは発砲事件で重傷を負った。奇跡的に一命をとりとめたが、彼は肺を傷つけられてサックス奏者としての生命を失った。絶望の最中、彼は夜の路上で見知らぬ死体と出くわし、そばに落ちていた鞄から電話番号のメモと石を手に入れる。その石は不思議な青い光を放ち、電話に出たのは女優志望のシリアだった。それがきっかけで駆け出しの女優のセリアと知り合い、二人は恋に落ちる。幸せな時を過ごす彼らだったが、セリアが古典的な名画『パンドラの箱』のヒロイン“ルル”役に選ばれ、撮影場所のダブリンヘと旅立ってから、二人の運命はすれ違うことになる。イジーは石の行方を探す謎の一味に襲われて監禁され、ヴァン・ホーン博士という謎の男の尋問を受ける。そして、セリアも石を探す一味から追われることになる。悲観した彼女は、医師と共にダブリンの川に橋から身を投げたのだった。悲しみに暮れるイジーはある決断を下すのであったが……。

 

この映画は簡単に言ってしまうと、ある男が悲運な死を遂げる瞬間に、たまたま写真を見かけた美女と恋人になった妄想をするという内容に過ぎない。しかし、ただそれだけの内容にしては深い余韻を残す作品のようにも思える。それはこの作品がもう一つの解釈を残しているからかもしれない。つまり、イジーが発砲事故から生き延びてセリアと恋に落ちる世界と、イジーは発砲事故で命を落としてセリアとはなんの関係もない世界、その二つの世界はどちらかが夢でどちらかが現実というわけではないのだ。世界はどちらも現実である。何を言っているのかわからないかもしれないが、「実は死んでいた」系映画には常にこの感覚が付きまとっている。

 

 

 

デイヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』2001年

「実は死んでいた」系映画が魅力的なのは、死に瀕した主人公が見る夢がただの夢ではなくて一種の可能世界だからだと思う。デイヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブもそう思ってみると、ただの奇をてらった難解映画ではなくて、恐ろしいほどに残酷で切実な映画だということがわかるだろう。

 

あらすじはこうだ。夜のマルホランド・ドライブで、若者たちが暴走したうえに自動車事故が起こした。事故現場から一人生き延びた黒髪の女性は、命からがらある家にたどり着き、そこでハリウッドにやってきたばかりのベティと鉢合わせることになった。ベティから名前を聞かれた黒髪の女性は、部屋に貼られていた女優リタ・ヘイワースのポスターを見て、反射的に「リタ」と名乗った。そして、リタはベティに自分が事故で記憶喪失になっていると打ち明け……。

 

これは序盤も序盤のあらすじに過ぎない。本作はもともと連続ドラマの構想から発展した映画ということもあって、雑多なエピソードが乱立するような構成をとっているため、全編のあらすじを短くまとめることはできない。特に、前半部分は不気味なイメージと支離滅裂な出来事の連続で、まさに悪夢的と言う他ない映画となっている。その悪夢的なイメージも、ただのホラー演出というだけでなく、ハリウッドの夢破れた若者が自ら命を絶つ前に見た夢であるというオチがつくことによって、本作は悲劇的で感傷を誘う物語になっているのだ。

 

 

 

 高橋洋監督『恐怖』2010年

最後の作品として高橋洋監督『恐怖』を紹介しよう。はっきり言ってよっぽどのホラー映画マニアでなければ視聴をおすすめできるような作品ではないのだが、「実は死んでいた」系映画を鑑賞するにあたって重要な示唆に富んだ作品であることは間違いない。

 

あらすじはこうだ。幼い姉妹のミユキとカオリは、ある夜、両親が謎の脳実験を記録したフィルムを映写していることろを目撃してしまった。17年後、ミユキは自殺サイトを通して集まった4人の若者たちとともに集団自殺を試みる。しかし、女医でもある母親の間宮悦子の手によって、彼女たち自殺志願者は拉致されてしまうのだった。悦子は、病院に運ばれてきた自殺志願者の一人が、長いこと会っていなかった娘のミユキであることに気づいたが、容赦なく開頭手術を施すことにする。悦子によれば、その手術はシルビウス裂と呼ばれる脳の部分に電気を通すための金属片を埋め込むというのだった。さらに、この手術を受けた人間は、常人には見えないものが見えるようになり、霊的進化を遂げるというのだ。一方で、妹のカオリはミユキの行方を捜索していた。彼女は、ミユキの恋人本島や刑事平沢の協力を得て、失踪した姉を探し求めるのだが……。

 

はてさて、ここまで「実は死んでいた」系映画を紹介してきたわけだが、こう思っている人もいるのではないだろうか。「結局のところ、すべて夢落ちじゃねーか」と。そういう人のために、本作のDVD特典としてついている高橋洋監督インタビューを引用しておこう。

夢落ちではないんですね。(中略)胡蝶の夢というと、どっちが夢でどっちが現実かわからないってことでしょ。違うんですよ。どっちも現実って感覚なんですよ。複数の現実が共存しているのだっていう。(中略)アウシュビッツから生還して、今イスラエルで生きている人たちは、イスラエルの生活が現実だとは思えなくて、今でもアウシュビッツにいて、今こうやって平和に生活していると思っているのは必至で助かりたいと思っている人間の狂った妄想なんだっていう感覚がどうしても抜けないそうで。

 

 

 

他にも、シャマラン監督の某映画や、ニコール・キッドマン主演の某映画とか、「実は死んでいた」系映画の傑作はまだまだあるのだが、今回はこの辺で手を引きたいと思う。

 

それでは、エンディング代わりにこちらをどうぞ。またいつの日にか。


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