- 君たちが独断と偏見で「月刊アフタヌーン史上、最重要な漫画10選」を決めるなら、僕だってそうする。
- 青年誌のオルタナティブとして生れ落つ
- 編集長が変われば雑誌も変わる
- 四季賞あってこそ
- 2014年以後の『月刊アフタヌーン』
- 新しい風を吹き込んだ作品たち
- 完成!究極の10選
君たちが独断と偏見で「月刊アフタヌーン史上、最重要な漫画10選」を決めるなら、僕だってそうする。
この増田を見たとき、ふと、そう思った。
しかし、いざ10作を選ぶとなると難しい。
「史上最重要」を謳うのであれば、単にヒット作であるとか、大作家の代表作であるとか、超面白いというようなことだけでは選定理由にならないはずである。
読者の人気や個人の思い入れではなく、その漫画が雑誌にとってどのような意味があり、どのような影響を与えたのかという観点から10作は選ばれるべきだろう。
つまりは、以下の2つの条件のうち、最低でもどちらか1つを満たしているものを選びたいのだ。
●雑誌の歴史における事件や転換点に深く関係している漫画であること。
●雑誌の方向性や後継作品に大きな影響を与えた漫画であること。
指針が定まったところで、『月刊アフタヌーン』とはいかなる雑誌なのか、その歴史から紐解いてみることにしよう。
青年誌のオルタナティブとして生れ落つ
『月刊アフタヌーン』は、1986年に『モーニング』の増刊が定期化するかたちで創刊された。
当時の講談社には、すでに『モーニング』『週刊ヤングマガジン』という二つの青年誌が存在していたわけで、アフタヌーンは青年誌として生まれながら青年誌らしくないことを求められていたのである。
それゆえに、掲載作は実験的な表現を追求したものが多く、オルタナティブコミック的な方向に雑誌全体が傾いていくことになった。
とはいえ、実験的な作品ばかりでは雑誌として安定した売り上げは見込めない。
だからこそ、創刊初期の紙面を支えたのは『モーニング』からの移籍組であった。
特に、その象徴と言えるのが、1988年に連載をスタートした藤島康介『ああっ女神さまっ』だった。
単なるヒット作だから、象徴ということではない。
むしろ雑誌の最初期は、『冒険!ヴィクトリア号!!』『FLASH』などを連載していた田中政志の方が目立っていたぐらいである。(今となっては、完全に忘れられた作家だが……)
『ああっ女神さまっ』の本当にすごいところは、その安定感だ。
アフタヌーン6代目編集長である金井暁も「80年代からゼロ年代にかけて、藤島康介さんの『ああっ女神さまっ』がずっとアフタヌーンの看板作品でした*1」と証言している。
『ああっ女神さまっ』よりも人気のあった掲載作はいくらでもあるが、創刊時の人気を支えるだけでなく、それ以後も20年の長きに渡って第一線であり続けた本作は唯一無二の存在と言えるだろう。
もちろん、雑誌の生存戦略は『モーニング』から人気作家を引き抜くことだけではなかった。
初代編集長である栗原良幸*2は、1991年にそれまで中綴じだった雑誌を平綴じに変更し、雑誌の「1000ページ越え」を宣言するのであった。
編集長が変われば雑誌も変わる
青年誌が一般的に「中綴じ」であったのに対して、アフタヌーンが「平綴じ」に切り替えたことは革命的変化であった。
例えば、5代目編集長である宍倉立哉は、こう言っている。
週刊誌の時は、だいたい20ページを基準に限られた枚数に内容を入れる技術が重視されています。一方、アフタは平綴じ(背表紙が平面で、厚みを変えられる)の為、何ページにでも増やせます。その為、アフタでは各作品のページ数に制約がないと言っても過言ではありません。*3
「平綴じ」であるということは、長編読み切りであっても雑誌掲載が可能ということであり、それは他の青年誌には載せられない作品を載られるということを意味していた。
この発想は、四季賞の応募要項が「ページ数無制限」であることにもつながっていくものであった。
というわけで、栗原の「1000ページ越え」宣言は、単なる奇をてらったものではなく、他の青年誌と差別化するための戦略であった。
栗原:雑誌全体じゃなくて、全部個別の作品として反応していました。雑誌は、数本の飛びぬけて売れる作品に頼るよりも、個々の作品はそんなに単行本としては売れないんだけども、バラエティに富んでる方が強い、という実感があったんです。当時のコスト計算で、単行本を15,000部以上売らせてもらえば面白いと思う作品は何でも受け入れますよって考えていました。*4
万人受けするヒット作を生み出すことに固執しない、それよりもバラエティに富んだ紙面をつくることに舵を切ったのだ。
そうして万人受けを狙わない尖った編集姿勢から生まれた作品と言えば、岩明均『寄生獣』だ。
『ああっ女神さまっ』は『モーニング』の人気作家を引っ張ってきた成功であったが、まだ駆け出しの漫画家だった岩明均を人気作家に押し上げたという意味で、『寄生獣』のヒットはまた別の意味を持っていたと言えるだろう。
編集長と言えば、2代目編集長・由利耕一についても語らねばならないだろう。
もともと文藝志望であった由利は、文学的でストーリー主導の作品を多く採用するようになっていったと評価されている。(アフタヌーンに高野文子や平田弘史を招いたのも、そうした流れの中にある)
いい意味でも悪い意味でも『モーニング』の延長戦上であった『月刊アフタヌーン』を、由利はなんでもありの雑誌に変えてしまったのだ。
さらに、由利はもう一つ大きな改革を行っている。
それは、四季賞に漫画家の外部審査員を招いたことだ。
四季賞の在り方を変えるということは、アフタヌーンの在り方を変えるということに他ならない。
次は、アフタヌーン主催の漫画新人賞・四季賞の歴史をたどっていこうと思う。
四季賞あってこそ
初期アフタヌーンは『モーニング』作家を引っ張って来ることで成立していた雑誌であったが、創刊時から新人賞である「四季賞」を設け、新人育成にも力を注いできた。
はじめての四季賞である1987年春のコンテストからして、のちに『地雷震』を連載する髙橋ツトムを発掘するなどの成果をあげていたわけだが、本当の四季賞らしい四季賞のスタートは1993年夏のコンテストを待たねばならない。
1993年は、前章でも触れた通り、初代編集長・栗原が「1000ページ越え」を宣言し、それを実行した年であった。四季賞もこの年を境に、ページ数制限が取り払われた。
ページ数制限を取り払った1993年夏のコンテストで入賞した投稿作をそのまま連載化してヒットさせたのが、沙村広明『無限の住人』である。
四季賞に投降した理由を「ページ数制限がなかったから」だと証言している作家は数多い。田口 雅之、遠藤浩輝、林田球、篠房六郎、ひぐちアサ、今井哲也などがそうだ。*5
特に、2005年冬のコンテストで受賞した今井哲也は、132ページもある大作「トラベラー」を投稿して度肝を抜いた。
また、四季賞の投稿作がそのまま連載になりヒット作に育つ流れは、その後も続くことになる。(芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』、弐瓶勉『BLAME!』弐瓶勉、漆原友紀『蟲師』、とよ田みのる『ラブロマ』、瀧波ユカリ『臨死!!江古田ちゃん』など)
しかし、その流れを変える作品もまた生まれる。
6代目編集長・金井暁はこう証言する。
投稿作がそのまま連載化、という流れが確かにあった四季賞ですが、この流れもある時を境にピタリと止まります。やはり、市川春子さんの『虫の歌』が2006年四季賞春のコンテストで大賞を受賞したときが分水嶺だったように思います。市川さんはその後読み切りを何作も描き、大賞受賞作と同名の『虫と歌 市川春子作品集』と『25時のバカンス 市川春子作品集』の2つの短編集を刊行されています。その後も受賞作がそのまま連載化という作品がまったくないわけではないのですが、残念ながら大ヒットには至りませんでした。*6
『宝石の国』の市川春子さんが2006年夏に『虫と歌』で四季大賞を受賞された時点を境に、リストの男女比が大きく変化している点(中略)市川さんの受賞以前は35人中女性は8人、23%の割合です。それが、市川さんの受賞後は16人中13人が女性で81%の割合。*7
ゼロ年代にもなると、アフタヌーンの成功を参考にしたような雑誌が他の出版社から創刊されるようになる。『月刊IKKI』(2003年~2014年)、『マンガ・エロティクス・エフ』(2001年~2014年)、『月刊COMICリュウ』(2006年~2018年 ※紙媒体として)などが代表的であろう。
『モーニング』の増刊として生まれたアフタヌーンが、今度は逆に他誌から手本とされる時代が来たのである。
それゆえに、今までと同じようなことをやっていてはライバル誌と差別化ができなくなるわけで、アフタヌーンはより実験的、あるいはアート的な作品にも門戸を開いた。
その成果の一つが市川春子の成功であったと言えるはずだ。
さらに、四季賞に女性投稿者が増えたことに呼応して、2008年から2019年にかけて四季賞の外部審査員として萩尾望都が招へいされた。
この意外な抜擢も四季賞に新しい風を吹き込んだ。
2012年秋のコンテストで佳作に入賞し、現在は『スキップとローファー』を連載する高松美咲は、「私が四季賞に応募したのは萩尾望都先生に読んでほしかったという理由で*8」あると明言している。
他にも萩尾望都が担当していた回では、椎名うみ、恵三朗、米代恭など、時代が違えば少女漫画家としてデビューしていても不思議でない作家たちが受賞している。
このように時代にあわせて変化を続けるアフタヌーンと四季賞であったが、今までのやり方が全く通用しない時代が近づいてきていた。
象徴的なのが、『月刊IKKI』『マンガ・エロティクス・エフ』が休刊した2014年。
アフタヌーン的なものの拡大に限界が見えた年だった。アフタヌーン的なものが漫画業界全体に広くいきわたりすぎたのだ。
今となっては、実験的でオルタナティブな表現を追求した漫画は少年誌にも掲載される時代であるし(『チェンソーマン』などを見れば明らかだろう)、ページ制限無制限の新人賞も珍しくなくなった(WEB漫画の発達によって雑誌掲載を前提にしなくなった)。
『月刊COMICリュウ』の編集長・猪飼幹太はこう証言する。
漫画雑誌としては『ぱふ』時代にお付き合いのあった一九九〇年代の『アフタヌーン』が理想のイメージで、読者層のニーズに合わせることが常識だった当時の他の雑誌とは一線を画していた印象です。(中略)ただ二〇一〇年代後半になるとウェブ媒体が増えたこともあって大手雑誌も同じようなことを本格的にやり始めたので、だんだんうちの優位性が減じていった印象です(笑)。*9
かつてのアフタヌーンが持っていた「アフタヌーンらしさ」は、相対的に意味のないものになっていったのだ。
では、次の章では2014年以降のアフタヌーンが、いかにして生き残ったのか見ていこう。
2014年以後の『月刊アフタヌーン』
6代目の編集長・金井暁は、現在の「アフタヌーンらしさ」についてこう語る。
アフタヌーンがどういう雑誌か言葉で規定することに、半ば宿命的に、半ば伝統的に、躊躇しているのだと思います。「こういう雑誌です」と言った瞬間に、それが輪郭となり、それが限界となることを恐れている訳です。
「多様性」、これが現在のアフタヌーンという雑誌全体のテーマと言っていいだろう。
例えば、2021年には、編集部運営のWebマンガサイト「&Sofa」*11を開設した。「&Sofa」は、「どんなあなたも、いてほしい」というキャッチコピーに掲げており、フェミニズムなどの視点を盛り込み、多様性を重視した漫画に力を入れている。
さらに、近年のアフタヌーンで注目すべきは、オリジナル同人誌即売会であるCOMITIAへの接近である。
アフタヌーンがはじめてCOMITIA出張編集部に参加したのは、2007年のCOMITIA80からであるが、その後も年々蜜月関係は深まっているように思える。
特筆すべきは、2018年のCOMITIA123で開催された「即日新人賞」の受賞をきっかけに連載がはじまりヒット作となった*12、つるまいかだ『メダリスト』である。
以前のアフタヌーンでデビューする方法は二通りしかなった。①四季賞に応募するか、②他誌から引き抜かれるか、である。
しかし、つるまいかだ以降はそうではない。
アフタヌーンは今後も変化を続けるだろう。変化し続けることこそが「アフタヌーンらしさ」なのかもしれない。
新しい風を吹き込んだ作品たち
さて、10作のうち、5作の選定は終わった。
残りの5作は「雑誌の方向性や後継作品に大きな影響を与えた漫画」から選びたい。
客観的な根拠から作品を指定することは難しいが、できるだけ選定理由は書いていきたい。
これを外すことはできないだろう。オタクというもののイメージを変えてしまった作品である。どちらかと言えば、サブカル雑誌だったアフタヌーンに、オタクを合流させた作品として評価されるべきだ。
はい。初代の担当が重度のSFマニアで、僕も大好きなので、打ち合わせの度にSFの話で盛り上がってすごくニッチな分野で作品作りを始めちゃって(笑)。*13
ヒット作ということであれば、『シドニアの騎士』の方が適切だが、SF漫画の歴史を変えた一作ということであれば、こちらを選ぶ。アフタヌーンはもともとSF漫画の多い雑誌だったが、あくまで「SF×サスペンス(寄生獣)」「SF×ギャグ(岸和田博士の科学的愛情)」「SF×ホラー(エンブリヲ)」という塩梅だった。そうではなくて、SFマニアのためのSF漫画でヒットした功績は計り知れない。
アフタヌーンでもスポーツ漫画がヒットしていいんだという気づき。スポーツ漫画の主人公がこんなに性格のめんどうなやつでもいいんだという気づき。スポーツの細かい技術論をやっているだけでも漫画って面白いんだという気づき。色んな気づきにあふれていた。
こんなレディコミに載ってそうな漫画が四季賞を受賞してヒット作になるのは、まさしく事件だった。多様性の追求、「&Sofa」の開設など、現在のアフタヌーンの動きを理解するためには、この作品を外すことはできない。
同一作家から2作品を選ぶな、と言われるかもしれないが、『ヒストリエ』なしに今のアフタヌーンを想像できない。例えば、『ヴィンランド・サガ』も超重要な作品ではあるが、『ヒストリエ』なくして『週刊少年マガジン』から移籍してこようという発想が生まれただろうか。
これで、究極の10選を作る材料はすべてそろったはずだ。
完成!究極の10選
ついに、究極の「月刊アフタヌーン史上、最重要な漫画10選」が完成した。
【究極の10選】
★メダリスト(つるまいかだ)
しかし、なぜだろう。
せっかく究極の10選が完成したのに、ぼくの心は空しいままだ。
そこで、ある偉い人の言葉を思い出すのであった。
「10選は人の心を感動させて初めて芸術とたりうる」
「今のお前はどんな10選を作ったところで知識自慢の低俗な見せびらかしで終わるだろう。そんなお前が究極の10選なんて滑稽だ」
そうだ。10選は知識を見せびらかすための道具ではなかった。
自分が本当に感動した漫画を選定してこそ、人を感動させることができるのだ。
ぼくはもう一度、10選を考え直すことにした。
純度100%の独断と偏見で選びなおした本当の10選を。
【至高の10選】
★我らコンタクティ(森田るい)
★ヤサシイワタシ(ひぐちアサ)
★クーの世界(小田ひで次)
★菫画報(小原愼司)
★岸和田博士の科学的愛情(トニーたけざき)
★眉白町(椎名品夫)
★Spirit of Wonder(鶴田謙二)
青春じゃない何かに再び夢中になる大人の漫画。
切ったら血が出るような痛々しい青春漫画の到達点。
なにかのめり込むこと、夢中になることの輝き。人生のすべて。
少女の内面を旅する童話。激鬱の続編『夢の空地』も必見。
日常と非日常が行き交う”ふしぎ”漫画。これがなければ『それ町』もなかったかも。
倒錯の生物學(バイオロジカル)ホラー。作者の力量を超えてしまった奇跡の怪作。
悪趣味SFギャグ漫画として、やるべきことをすべてやり切ってしまった作品。
ドタバタコメディSFの仮面をかぶったセカイ系漫画。
アフタヌーンに残された最後の”隠れた傑作”。
結局のところ、チャイナさんが鶴田ヒロインの完成形なんですよ。
*1:https://note.com/afternoon_manga/n/n481c91175d4a
*2:80年『月刊少年マガジン』編集長を経て、82年に『モーニング』、86年に『アフタヌーン』を創刊、編集長を務めた。
*4:https://www.comitia.co.jp/history/149taidan.html
*5:『アフタヌーン四季賞CHRONICLE Explanation Book』参照。
*6:https://note.com/afternoon_manga/n/n3f0592ebb1cf
*7:https://note.com/afternoon_manga/n/n5a81600d925c
*8:https://manba.co.jp/manba_magazines/20440
*9:ばるぼら+あらゐけいいち『コミティア魂 漫画と同人誌の40年』フィルムアート社、2024年
*10:https://note.com/afternoon_manga/n/ndc60a6fa9a28
*11:https://afternoon.kodansha.co.jp/news/5371.html