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雑文置き場

乗っ取り系ホラーアンソロジー

 

最近、架空のアンソロジーを考えることが流行っていると聞いたので。

 

saitonaname.hatenablog.com

proxia.hateblo.jp


 ポン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』が大ヒットしてから、富裕層に対する貧困層の反逆というテーマを通して様々な映画が語られるようになりました。やはり(自分よりは)恵まれている人の家を乗っ取るということは、人間が抱く願望の一つの類型なのかもしれません。

 しかし、それは映画だけに限られた類型ではなく、ホラーやサスペンス小説でも脈々と受け継がれている水脈であることを忘れられがちでもあります。一番有名なのは、ヒュー・ウォルポール「銀の仮面」でしょうか。ジャンルを狭く取り過ぎた感はありますが、自分が好きなテーマなのでこのまま行きます。


≪注意!≫
家を乗っ取る話だとわかった上で読んだとしても面白さが変わらない小説を選んだつもりですが、小説を読む際にあらゆる偏見を持ちたくないという人はここで引き返した方がいいでしょう。











 

 

 

ラインナップ 


各篇紹介

ヒュー・ウォルポール「銀の仮面」

銀の仮面 (創元推理文庫)

銀の仮面 (創元推理文庫)

 

 


 この作品を除いて、乗っ取り系ホラーを語ることはできないでしょう。江戸川乱歩にして〈奇妙な味〉の傑作とされてしまったがゆえに、〈奇妙な味〉というジャンル自体の意味を決定づけてしまったような風格さえあります。古典でありながら最恐、まさに読んでいると呼吸するのを忘れてしまうような悪意に満ち満ちた作品です。

 

 

パトリック・クェンティン「少年の意志」

金庫と老婆 (ハヤカワ・ミステリ 774)
 


 このタイプの話で幅を持たせる方法は大きくわけて二つあると思います。乗っ取る方法、もしくは乗っ取る人物の属性、そのどちらかを独創的なものにするということです。P・クェンティンは後者を選びました。大人の男性ではなく、まだ幼さの残る少年を悪役として選んだことで、どこか少年愛的な雰囲気のある物語に仕上っています。

 

 

レイモンド・カーヴァー「隣人」

 
 平凡な夫婦であるビルとアイリーンが、隣に住むストーン夫婦から旅行で留守の間に観葉植物と猫の世話を任されます。二人はストーン夫婦の生活が自分たちよりも上等なものだと憧れていましたので、用事がなくても留守中の家に入り込んで長い時間を過ごすようになります。そして、ストーン夫婦は戻って来ないんじゃないかという期待を持つようになるのです。さて、二人の破局がどのようなものになるのか、それは皆さんご自身の目で確かめていただくしかありませんが、これは異色の乗っ取り系ホラーと言えるでしょう。なにしろ本当に恐怖に晒されるのは家を乗っ取ろうとする側なんですから。

 

 

吉田知子「水曜日」

箱の夫

箱の夫

 

 

「しっかりつかまえてうまいとこ飼い慣らしてやろうと思った」
これは乗っ取ろうとする側の言葉ではありません。主人公の老女が住み込みの家政婦を雇おうとする時に考えたことなのです。そこがこの短篇の最も優れたところだと言えるでしょう。家を乗っ取る側と乗っ取られる側の境界線が最初から揺らいでいるのです。乗っ取り系ホラーでは一線を越える瞬間が必ずあるものですが、吉田知子の手にかかるとそこがはっきりしません。いつの間にか主人公は一線を越えてしまって何もかも乗っ取られるのです。

 

 

ディーノ・ブッツァーティ「家の中の蛆虫」

 
 本作は一種の〈分身〉テーマの作品として読むこともできます。実は先に紹介した吉田知子「水曜日」も同じ趣向を持つので是非読み比べてほしいです。また、家の中の蛆虫=寄生虫から悪意や野心をあまり感じないところは他作品と違うところです。むしろ、人間同士の交換可能性に恐怖を感じる作品と言えるでしょう。

 

 

フィッツ=ジェイムズ・オブライエン「なくした部屋」

 

 こちらは今までに取り上げてきたものとは違って幻想文学になります。主人公が間借りしている部屋を乗っ取ってしまう人たちも人間ではない妖怪や悪霊の類いのように描かれ、どこか全体的にファンタジックな雰囲気です。では、あまり現実的ではなくて怖くない話なのかと言うとそんなことはありません。むしろ、自分の家を失ってしまったことの切実な怖さという点では突出している作品です。

 

 

ミルドレッド・クリンガーマン「赤い心臓と青い薔薇」

 
 この作品で標的とされるのは家族です。いつの間にか家族の中に入り込んでくる侵入者のことは薄気味悪いとしか言いようがないです。乗っ取るだけでは飽き足らずに、その家で暮らす人々の精神をめちゃくちゃに破壊してしまう陰湿な悪が描かれています。被害者側の精神的均衡が崩れいくニューロティックな恐怖が見所です。

 

 

クリスチアナ・ブランド「この家に祝福あれ」

 
 侵入者たちは得てして魅力的でありながらも不気味な存在であることが多いですが、この話においてはいっそ神聖さを感じるほどに純粋で美しい存在に見えます。だからこそ、恐ろしい落差に愕然とする作品です。

何かの漫画26選

 

 蔵書整理をしていたら懐かしい漫画が色々でてきたので、適当にカテゴライズして26選つくりました。本当は100選を作るつもりでしたが面倒でした。

 というわけで、オールタイムベストではないですがいってみましょう!

 

・異種共生の漫画4選

 

1.田中雄一田中雄一作品種 まちあわせ』(講談社
2.小川幸辰エンブリヲ』(講談社
3.久井諒子『竜の学校は山の上』収録「進学天使」(イースト・プレス
4.ねこぢるねこぢるせんべい』収録「ねこざる戦争」(集英社

 

1.異形の生物と人類の間に生じる闘争と共存を描いたSF短篇集。未知の生物と接した人間の恐怖を生々しく描くことに長けている作品であり、異生物から攻撃されることの身体的恐怖にとどまらず、理解できない存在に相対した時の心理的恐怖を読者に伝えることに成功している。


2.虫の子供を宿す少女が巻き起こすパニックホラー。パニックものの原理原則を押さえ、適度なエログロを盛り込みつつも、主人公の少女にどこか爽やかな感じを受けるのが独特の味である。虫の子供を出産するシーンはグロテスクでありながらどこか神話的で荘厳な雰囲気に満ちている。ちなみに作者は別名でロリエロ漫画を描いている。

 

3.久井諒子は同人作家時代から繰り返し亜人との共生をテーマにしているが、特に本作は、もし天使のような有翼人がいたらというIFだけで終わるのではなく、そこから生まれる切ない青春ドラマに昇華しているのが秀逸である。

 

4.共存していたネコとサルがどちらかの一族が根絶やしになるまでの戦争に発展する話。ねこぢるは一貫して主張している。他者と同じ世界で暮らす以上は、まともな人間ほど狂気に陥らざる得ないことを。私たちもにゃーこやにゃっ太のように生きられねば狂うのみかもしれない。

 

 

 

 

エンブリヲ 1

エンブリヲ 1

 

 

 

竜の学校は山の上

竜の学校は山の上

 

 

 

ねこぢるせんべい (愛蔵版コミックス)

ねこぢるせんべい (愛蔵版コミックス)

  • 作者:ねこぢる
  • 発売日: 1998/08/20
  • メディア: コミック
 

 

・実録の漫画2選


5.道草晴子『みちくさ日記』(リイド社
6.永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』(イースト・プレス

 

5.13歳で漫画デビューするも精神科病院に入院することになった著者の半生を描く圧倒的密度の実録漫画。マジックで書きなぐったかのような四コマ漫画であるが、本作にはその時々の著者の心情がはっきり伝わる確かな技術があり、重い話をそう感じさせず読ませることに成功している。


6.レズ風俗のレポと言いつつ、実態は生きづらさを抱えた女性のエッセイ漫画である。こういった手合いの漫画は困難的状況から脱した後に懐古的手法で描かれるものが多いが、著者が未だ困難の中でもがき続けていることが伝わるところに妙な迫力があり、回顧録がメインであった実録漫画に、独特なドライブ感を持ちこんだことは革命であるかもしれない。

 

みちくさ日記 (トーチコミックス)

みちくさ日記 (トーチコミックス)

 

 

 

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

 

・陰鬱になる漫画3選


7.小田ひで次『夢の空地』(飛鳥新社
8.円山みやこ『蟲笛』(青林工藝舎
9.吾妻ひでお『夜の魚』(大田出版)

 

7.本作はホッとするような作風だったファンタジー『クーの世界』に対する正統続編でありながら、前作の感動をひっくり返すような陰鬱さが驚きの作品。ク―という女子中学生が夢の中で死んだ兄と似た青年と旅をすることで心の喪失を埋めていくという前作にしても、思春期の恋愛やいじめといった不穏な要素も多分に含まれていたが、その続編として作られた本作はファンタジー要素をなくし、その不穏で陰鬱な部分をより発展させている。特に様々な問題を抱えてはいるが素直で透明感のあった少女が、大学生になって講師と不倫関係に至り爛れた生活を送っている様子や、夢世界での冒険が精神病から生じる妄想であったかのように扱われていることは衝撃的である。しかし、この陰鬱さはファンタジー要素を現実から逃避する手段ではなく、現実を直視するための武器だとする真摯な態度だと評価したい。


8.本作がなんと言っても目を引く部分は、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」「新潟少女監禁事件」など時代を代表するような凶悪事件を題材にしていることだろう。こういったセンセーショナルな事件を扱う場合、恐ろしい犯人たちがどういう歪んだ人間だったかということに視点が置かれがちである。しかし、本作は徹底して被害者、もしくは事件を見過ごした凡庸な市民の視点を通して描かれるため、露悪的なエンタメでは絶対に成し得ない絶望感を余韻として残すことになる。本当の意味で被害者の立場から凶悪事件を描くことは、ここまで危険な表現なのだと私たちは気付かされる。


9.大田COMICS芸術漫画叢書という完全に大塚英志の趣味で作られた謎の叢書の第一回配本である。『失踪日記』では悲壮な現実を明るくポップにも見えるようにも描いていたが、そこに至るまでの自閉的精神状態を描いている。エッセイ漫画のようでもありながら、私小説的なアート漫画にも思える。どうにも煮え切らない生々しさが本作の味であり、どこか気味の悪さを感じさせる。

 

夢の空地

夢の空地

 

 

 

蟲笛

蟲笛

 

 

 

 

・姉、あるいは妹の漫画6選


10.富沢ひとし『プロペラ天国』(集英社
11.ルネッサンス吉田『あんたさぁ、』(小学館
12.宮崎夏次系『夕方までに帰るよ』(講談社
13.華倫変『カリクラ②』収録「テレフォンSEX」(講談社
14.西村ツチカ『かわいそうな真弓さん』(徳間書店
15.大田モアレ『鉄風』(講談社

 

10.「私の姉は出来が悪い」という印象的なモノローグではじまる本作は、「合成人間」と呼ばれる新人類的存在が共存する世界で、「恋愛探偵組」を結成した姉妹が合成人間絡みの事件を解決していくという物語である。少女漫画的とも萌え漫画的とも微妙に違う独特な愛らしさを持つ少女キャラクターや、最終的には何やらよくわからない観念的でSF的な解決を迎えるという点においては、『エイリアン9』以降の富沢ひとしの典型的な作風であると言えるだろう。しかし、本作が特に優れている理由は、「姉:妹」というミクロの関係性が、そのまま「合成人間:普通人間」という物語上のマクロな関係性に対照していることである。姉は妹よりも偉いのだから姉は妹に対して支配的な影響力を持つが、それは一面に過ぎず、妹も主体的に行動することで姉に影響を与え続けているのである。その姉妹の関係性が合成人間と普通人間の闘争を打ち破ると可能性を感じさせて物語は閉じる。


11.「われといふ時計は疾うに停止して」、ここでいう停止した時計とは姉のことである。時間が止まってしまった姉は漫画を描いたり売春をしたりして暮らしつつ、弟と過ごしたとりとめもない思い出を溢れださせる。これはそんな漫画である。姉弟は止まった時間の中で何を語るのか。時間は前に進むだけではない心地よい諦観の姉漫画である。止まった時間というのは、姉漫画において最も重要で頻出するテーマではあるが、それだけで一本の長編漫画に仕立てあげてしまうのは凄まじい。


12.新興宗教にハマってしまった両親のことを相談しようと、久しぶりに主人公は姉に会いに行くのだが、姉はひきこもりになっていて……。短編だけではなくて長編をやらせても夏次系はすごいと世間に認めさせたわけだが、姉漫画に対する理解度も常人をはるかに越えている。なぜといって、この漫画ではほとんど姉が出てこないのである。終盤になってやっと姿を現すことは現すが、彼女はダンボールを頭から被ったままなので、私たちは姉がどんな顔をしているのかすら知ることはない。それでも漫画の1コマ、1ページの隅々から姉の声が聞こえるし、姉の存在を感じるのである。こんな漫画はたぶん他にない。


13.華倫変は苦界、つまりは売春をテーマにした話を執拗に描く、タイトルを見れば明らかなように本作はテレクラを題材にしている。姉が夜になると頻繁に電話をしていることに疑問を抱いた弟は、姉の身辺を調査しはじめる。弟の立場から見た姉の清廉さが、かえって苦界の闇を想像させる。姉はどこか影があってミステリアスであればあるほどいい。


14.「今日から真弓おばさんは…真弓姉ちゃんに変わります」年をとる程に若返っていく真弓さんは、登場時は主人公よりお姉さんで、そのうちに同い年になり、年下の妹になっていくことになる。姉は時間が固定されていることこそが特徴であったはずなので、真弓さんの時間は私たちが追いつけないスピードで流れていく。これは姉漫画だと言えるのか、姉漫画の開いてはいけない扉を開いてしまったのかもしれない。


15.リアルな女子総合格闘技漫画という点において、本作はそれだけでも充分にオリジナルな作品(つまり「バキ」シリーズなどに見られるようなファンタジックな格闘描写は欠片もないというところがかえって魅力的)ではあるのだが、何を隠そう本作は妹漫画なのだ。今まで見てきた姉漫画の鏡像と言ってもいい。主人公は「妹」であり、彼女が総合格闘技に打ち込む動機は時間の止まってしまった「兄」の存在に支配されている。姉をよく知るためには、妹のこともよく知らなければならないだろう。

 

プロペラ天国

プロペラ天国

 

 

 

 

 

 

 

カリクラ 華倫変倶楽部 下

カリクラ 華倫変倶楽部 下

 

 

 

かわいそうな真弓さん

かわいそうな真弓さん

 

 

 

鉄風(1) (アフタヌーンコミックス)

鉄風(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

・夢の漫画3選


16.真柴真夢喰見聞』(スクウェア・エニックス
17.福島聡『DAY DREAM BELIEVER again』(KADOKAWA
18.原作:奥瀬サキ、漫画:目黒三吉低俗霊DAYDREAM』(KADOKAWA

 

16.「夢」を読み解くことをテーマにした漫画はよくあるものだが、本作がすごいのはその構成力とアイデアの発想力である。一話完結のスタイルで全九巻も続けたうえに毎回ちゃんと面白くて捨て回がないということは驚異的と言う他ない。


17.18.夢と言っても寝ている時に限るものではなく起きている時にみるものもある。デイドリーム(白昼夢)の名を冠する二つの漫画は間違いなく、起きている時にみる夢の恐ろしさを確実にとらえて、私たち読者を離さない。

 

 

 

DAY DREAM BELIEVER again 1 (HARTA COMIX)

DAY DREAM BELIEVER again 1 (HARTA COMIX)

 

 

 

 

・ミステリの漫画5選


19.早見純『性なる死想』収録「激痛100%」(久保書店
20.諸星大二郎『ぼくとフリオと校庭で』収録「黒石島殺人事件」(双葉社
21.藤田和日郎『夜の歌』収録「夜に散歩しないかね」(小学館
22.呪みちる『青色の悪魔円盤』収録「侏儒―リューゲル―」(ソフトマジック

 

19.ミステリ読みにはどんでん返しを何よりも好む傾向がある。そのどんでん返しがごく単純な仕掛けであり、その単純さゆえに誰もが騙され世界がひっくり返るようなものが至高だろう。早見純の成人向け漫画は、猥雑で猟奇的でありながらどこが詩情を備えている。それゆえ、何かが間違った時、突然変異的にミステリ短篇が発生するのだ。同書収録の「のど奥深く」もミステリなので読もう。


20.ミステリというジャンルは、たいてい物語の序盤に殺人事件が起こって、そこからは誰がどうやってなぜ殺したのか、トリックやロジックを駆使した喧々諤々の議論の末に解き明かしていくわけだが、その過程で事件の主役であるはずの死体(被害者)は背景になって脇に追いやられてしまうことが少なくない。この短篇はまさにその点を痛烈に皮肉っている。


21.ミステリに期待するものがすべて詰まっている。すべてとは、幽玄、猟奇性、薄幸の美少女、異常者の探偵、犯人の異常な心理、大掛かりな物理トリックなどのことだ。


22.昔、本格ミステリ作家の蘇部健一は「一目瞭然の本格ミステリ」を目指し、イラストレーションを多用した『動かぬ証拠』などの諸作品をつくった。その完成形とも言えるのが本作である。

 

純の魂

純の魂

 

 

 

 

 

 

 

 


・学校の漫画3選


23.奥田亜紀子『ぷらせぼくらぶ』収録「放課後の友達」(小学館
24.深山はな『一端の子』収録「あろえなあなた」(秋田書店
25.阿部共実『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々』収録「がんばれメガネ」(秋田書店
26.著者:背川昇、監修:般若/R-指定『キャッチャー・イン・ザ・ライム』(小学館

 

23.学校とは日本で生きている大多数の人が経験したことのある地獄なので、誰もが懐かしさを感じることができる。奥田亜紀子はそうした懐かしい地獄を、私たちとつなぎ止めておくことが圧倒的にうまい作家である。この話で登場する土屋くんは二頭身の明らかに漫画キャラなんだけれど、僕はなんかこいつとは昔の友達だった気がしてくるのだ。


24.何年間も同じ人間と同じ場所で顔をあわせていると段々とその人のことが当たり間にわかったつもりになっていくのだけれど、実のところ全然わかっていないし、その人は学校の外ではまた別の顔をしているという話。学校での出来事は人生の全てを支配していると感じることもあるけれど、あくまで人生の「一端」でしかないのだ。


25.と、言ったそばから、卒業してからもずーっと学校の思い出に支配されているメガネの話。またこれも人生の真実なので。


26.学校と言えば部活。部活漫画はリーダビリティーを高めるために大きな目標(大会優勝、ライバル校打倒……)を定めることが多い。しかし、本作にはこれといったものがない。登場人物たちの活動は、成功のための努力というよりも自己実現のための修行になっている。あと、日本のスラム街として団地が出て来るのがよい。いつか団地漫画10選をつくりたいと思う。

 

 

ぷらせぼくらぶ (IKKI COMIX)

ぷらせぼくらぶ (IKKI COMIX)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『アクタージュ act-age』はなぜ本格ミステリなのか

 皆さまは現在『週刊少年ジャンプ』で絶賛連載中の役者バトル漫画であるところの『アクタージュ act-age』をご存じでしょうか。私は週刊少年ジャンプを愛読しておりまして、つい最近アクタージュの「scene115. 必勝」を読んで「アクタージュは本格ミステリである」という結論に達しました。しかし、その意見をツイッターでつぶやいたとたんに、知人からは「意味不」「世界中でアクタージュを本格ミステリだと思っているのはお前だけ」などと多数のお叱りを受けてしまいました。

 
 したがいまして、なぜ私が「アクタージュは本格ミステリである」と考えるようになったのかについて書き記しておこうと思います。
 ではさっそく本題に進みたいところですが、その前に以下の注意点をご確認いただいてから読み進めるようお願いします。

① ここから先はアクタージュのネタバレが多分に含まれおり、読んでいることを前提に書いています。単行本派の方は読まない方がいいでしょう。


⓶ ここはアクタージュが本格ミステリかどうかを検討する場であり、本格ミステリとは何かについて統一見解を出すことを目的にしていませんのでご理解ください。

 

 

 

 

 アクタージュは本格ミステリである、もっと正確に言えば「scene115. 必勝」が本格ミステリである、と私は確信していますが、賛同者が少ないことは想像がつきます。

 予想される反対意見としては、「そもそも事件も何も起こっていないので、物語上に解かれるべき謎が存在しない。つまり、謎が提示され論理的に解明されるという本格ミステリの基本的な様式を備えていない」ということになるでしょうか。たしかに、アクタージュの作中では殺人事件が起こっているわけでもないですし、名探偵がでてくるわけでもありません。大河ドラマのオーディションが行われているだけです。

 しかし、読者に対して謎が投げかけられている作品だと思います。本格ミステリとは、作者と読者間に生じる一種の知的遊戯であるという考え方を受け入れるのであれば、読者に対して謎が提示されていれば充分に本格ミステリだと言えるわけです。

 ここまでのところに納得していただいたとしても、「ちょっと待ってくれ。読者に対して投げかけられた謎なんてあったのか?」という反論がありそうです。「アクタージュでの謎とは何のことだ? フーダニットか、ハウダニットか、ホワイダニットか、何もないじゃないか」というわけです。

 実のところ、「scene115. 必勝」は、それらのどれでもなくホワットダニット作品だと私は考えています。ホワットダニットというのも使う人によって意味の違う言葉なので注意が必要ですが、私は島田荘司先生の考えを参考にして、19世紀半ばの人たちがはじめて「モルグ街の殺人」を読んだ時のような何を読まされているのかもわからないようなミステリ、フーダニット・ハウダニットホワイダニットが未分化のミステリだと捉えています。つまり、ミステリ小説というジャンルすら存在しなかった時代の人間が「モルグ街の殺人」を読んだ時と同じように、現代の私たちはアクタージュを読んで「これはどういう物語なんだろう」というふうに考えさせられるわけです。

 とはいえ、私たちは19世紀半ばの人間ではないのでミステリがどういうものなのか、多少は知っています。ホワットダニットが、フーダニット・ハウダニットホワイダニットの未分化の謎、あるいは不可分なほどに複合された謎であると考えるとしても、ある程度まで切り分けて考えることは可能でしょう。「モルグ街の殺人」にしても、誰が犯人なのか(フーダニット)、どうやって密室で殺人を犯したのか(ハウダニット)、そもそも動機はなんなのか(ホワイダニット)というふうに細分化して認識することは可能です。

 「scene115. 必勝」の場合は、オーディション会場に現れた無名の新人とは誰なのか(フーダニット)、無名の新人が夜凪景だとすれば、どうやって他の受験者に気付かれずに済んでいるのか、メソッド演技を使う夜凪は自分の過去の経験をもとに演技するか他人から感情を教えてもらわないと演技ができないはずなのに全く別人の演技をどうやって可能にしているのか(ハウダニット)、そもそもオーディションで別人を演じる理由はなんなのか(ホワイダニット)ということになります。ただ一つの作品に、フー・ハウ・ホワイが盛り込まれているというだけのことではありません。その三つの謎が不可分なほどに絡みあい、むしろ謎が別の謎を補強しあっている作品がアクタージュなのです。
 例えば、「オーディション会場に現れた無名の新人とは誰なのか(フーダニット)」という謎に対しては、無名の新人は主人公の夜凪であると予想がついていた人は多いでしょう。

 しかし、確信を持つことは困難なはずです。なぜならば、「どうやって他の受験者に気付かれずに済んでいるのか、メソッド演技を使う夜凪は自分の過去の経験をもとに演技するか他人から感情を教えてもらわないと演技ができないはずなのに全く別人の演技をどうやって可能にしているのか(ハウダニット)」という部分に説明がつかないからです。ついさっきまでオーディションの待合室で隣に座っていたのに、髪をくくって眼鏡をかけた変装だけで正体を見破れないのは不自然です。ではなぜ、他の受験者が夜凪の存在に気がつかなかったのかと言えば、それは変装ではなく演技だったからです。演技によって別人を完全にトレースしていたので気がつけなかった。

 さらに「そもそもオーディションで別人を演じる理由はなんなのか(ホワイダニット)」が真相に近づくことを邪魔します。これらの謎は一つ一つ解いていこうとすると、他の謎が邪魔になって解くことができないようになっています。

 ホワットダニットの目線で何が起こっているのかということを考えなければ完全解答に至ることはできないわけです。


 皆さまもアクタージュが本格ミステリであることにご納得いただけたでしょうか。ちなみに、「scene115. 必勝」はいわば問題編であり、「scene116. もっと」が解決編になっております。ぜひ解決編も読みこんでいただき、アクタージュが本格ミステリであると改めて確信していただければ幸いです。ご静聴ありがとうございました。

村映画7選

 「私も自然由来の成分を摂取してハッピーになりたい」

 「アットホームな村人たちと踊り狂ってストレス発散したい」

 そんな衝動に駆られることってよくありますよね。とはいえ、自然豊かな村が出身の友達が都合よくいるわけもないと思います。そういう時は、せめて映画で疑似体験をしようというわけで、独断と偏見による村映画7選をここに公開します。

 

 村映画とはいったい何なのか? 

 その疑問に答えるすべを私は持ちませんが、村映画に特有の要素をいくつかご紹介しましょう。


◆〈脱出不能の恐怖〉村は他の世界から完全ではないにしても隔離されており、

 主人公は村から逃げ出すことには大変な困難を伴います。

◆〈異常な村人、あるいは監視の恐怖〉村人は異常な習慣や常識にとらわれており、

 異物である主人公を監視しています。

◆〈超自然的な存在の介入〉村には独自の宗教や伝説があり、超自然的な存在が

 影響力を持っています。

◆〈理性と道徳の敗北〉村では理性と道徳は役に立ちません。

◆〈暴力の勝利〉村において暴力はあらゆる手段に優先します。

◆〈錯綜した親族関係〉狭いコミューンでは親族関係が大きな意味を持ちます。

 そして、時に近親相姦も行われます。

◆〈悲劇的な破壊〉村は最終的によく燃えます。

 

 


1.『ウィンターズ・ボーン』(2011年)デブラ・グラニック監督


 人間が生活するのに向いてなさそうな山奥の寒村、それはヒルビリーと呼ばれるスコットランドアメリカ人のコミューンで、独自の「おきて」がアメリカの法よりも重視されている世界です。

 主人公は、その村でぎりぎりの生活を強いられている17歳の少女リーです。父親は覚せい剤の密造で逮捕され、母親は精神を病んで介護が必要な状態に陥っています。親が保護者の役割を果たすことができないのならば、残された子供たちが助け合って生きていくことになりますが、弟妹はまだまだ幼く、実質的にリーが一人で生活を支えることになります。

 そして、さらに悪いことには保釈中の父親が失踪したせいで住む家さえも没収されそうになるのです。不幸の連続にもめげず、リーは自分たちの家を守るために父親の行方を捜すことにするのですが。

 

 そもそもこの村というのが農耕と狩りだけでは食っていけないので、覚せい剤の製造が地域の産業になっているらしく、治安も最悪、貧しすぎるがゆえに氏族制度が根強く残っているという救いのない状況が背景としてあります。

 日本人にはあまり馴染みのないアメリカの暗部が描かれた映画と言えるでしょう。

 

 というわけで、かなりハードな映画なのですが、驚くべきことに当時のマーケティングでは「少女の成長と希望の物語」なんて言われていたようです。本編にはこれといった成長も希望もありませんので、これからみる人はご注意ください。

 大人たちから謂れのない責任を負わされ、国からは何の助けも得られず、保護すべき弟と妹がいるせいで問題を投げ出すこともできないし、村の「おきて」に縛られて行動も起こせない、そんな状況でも最後まであがき続ける少女、この映画にはそうした絶望的状況しかありません。

 しかし、村映画にそれ以上のものは必要ないのです。村映画から「成長」とかいうメッセージを受け取ろうとするのはやめましょう。

 


2.『ウィッカーマン』(1973年)ロビン・ハーディ監督


 スコットランド警察の中年巡査部長ハウイーは、ヘブリディーズ諸島の孤島で行方不明になった少女ローワン・モリソンを探してほしいと依頼を受けます。

 厳格なキリスト教徒であるハウイーは、この島がキリスト教ではなくケルトペイガニズムに支配されていることを早々に見抜きます。

 そして、行方不明の少女は「五月祭」の生贄にされてしまうのではないかと考えたハウイーは単身で奇祭の中に潜入するのですが……。

 『ミッドサマー』の元ネタの一つになります。元ネタと言っても、そのままそっくりではなくて、むしろ逆様の構図に仕立ててあるところが多いです。見比べてみると面白いと思います。

 村映画、カルト映画、ペイガニズム映画の傑作として様々な作品にリスペクトされている本作ですが、独自の魅力としては捜査パートの面白さあげられると思います。

 捜査といっても刑事のアクションや推理があるわけではなく、わりと行き当たりばったりで村民から聞き取りをしているだけなのに面白いのです。つまり、変な村人の話を聞いているだけで面白いという村映画のプリミティブな魅力を伝えている映画と言えるでしょう。

 


3.『呪われたジェシカ』(1971年)ジョン・ハンコック監督


 精神病を患っていたジェシカは療養のため、田舎町へ夫とその友人の三人で引っ越すことにします。到着早々、屋敷の中に見知らぬ少女エミリーが無断で住みついていたというトラブルがありましたが、ジェシカたちは追い出さずに四人で奇妙な共同生活をはじめます。

 夫と友人は農業をはじめて田舎町での生活を軌道に乗せようとしますが、一方で彼女は様々な怪現象や村人たちの奇妙な行動に苦しめられるようになっていきます。

 ニューロティック村ホラー映画。

 幽霊も怪物も出てこないし血もほとんど流れないので一見すると地味ですが、村にただよう不気味な空気感の演出にはみるべきものがあります。正気と狂気のはざまを揺れ動く主人公の内面に迫った映像は、村という舞台が恐怖を増大させる巨大な装置であると私たちに改めて気付かせてくれます。

 


4.『柔らかい殻』(1992年)フィリップ・リドリー監督


 1950年代、アイダホの農村で暮らす少年セス。

 ある日、彼は同じ村に住む未亡人ドルフィンの家を訪れます。いつも黒づくめで生気を欠いた彼女のことを少年は不信に思い、何気ない冗談をきっかけとして彼女が吸血鬼であると思い込むようになります。

 一方で、子供が犠牲者になった連続殺人が起こるようになり、村人や保安官は小児性愛者として前科のある主人公の父親に疑惑の目を向けるようになります。

 この村の大人たちはどこか傷ついて過去に囚われた人間ばかりです。主人公セスは無垢であるが故にそれを理解できません。理解できないことに対して、彼は「吸血鬼」や「天使」という概念によって自分が理解できる世界観を作っていきます。

 本作は非常に暗示的な村映画です。

 原題は「THE REFLECTING SKIN」ですが、冒頭で主人公のセスがカエルの尻に空気を送り込んで膨らませるところがまさにタイトル通りです。このカエルのゴム毬のような反発する肌がまさに「THE REFLECTING SKIN」なのであり、このカエルが最後には爆発してしまうところが映画全体の展開を暗示しています。

 実際、セスはカエルを爆発させたように、自分を包み守っていた「村」という「柔らかい殻」を爆発してしまいます。少年が大人になるためには殻を割るしかありませんが、村が壊れた時、彼はどうなってしまうのでしょうか。そこがまさに本作の見所です。

 


5.『私はゾンビと歩いた!』(1943年)ジャック・ターナー監督


 看護師のベッツィは西インド諸島セント・セバスチャン島の農園に派遣されます。

 彼女の仕事は雇い主のポール・ホランドの病に臥せっている妻ジェシカの看病であり、ジェシカは熱病の後遺症で意志のない夢遊病者のようになっていたのです。

 ベッツィは、なんとかジェシカの治療をしたいと考え、現地人から聞いた病気を治すブードゥの司祭を訪ねることにしたのですが、寺院では異様な風貌のゾンビが番人をしていました。

 ゾンビ村映画。

 色ものにしか見えないタイトルですが、黒沢清監督も認めるホラー描写、複雑に入り組んだプロット、全編にわたって妙な緊張感と高揚感に溢れた作品です。

 一言で説明するのが難しい本作ですが、当時のアメリカでは大ヒットしたそうなので、アメリカという国はやっぱり変な国だと思わずにいられません。

 また、本作は村映画という評価軸においても独特な位置を占めています。それは舞台が農園であるということに起因します。

 つまり、一つの村のように見えて、農園の経営者である白人の村と奴隷である黒人の村、二つの全く違う仕組みによって動いている村が重なりあった世界なのです。そして、その二つの村をゾンビという存在がつないでしまったところにドラマが起きます。何を言っているのかわからないかもしれませんが、本当にそういう映画なんです。

 


6.『トールマン』(2012年)パスカル・ロジェ監督


 ある寂れた炭鉱町コールド・ロックでは幼児失踪事件が頻発しており、事件の背後にはトールマンと呼ばれる怪人の存在が噂されていました。

 そんな状況の中で看護婦として働きながら子供を育てるジェニーは、ある晩、何者かによって子供を連れ去られてしまいます。傷だらけになりながらも子供を取り返そうと誘拐犯を追跡するジェニーでしたが、町の住人たちの様子には不審な点があり、彼女の疑惑は深まっていくことになります。

 本作の見所は、世界から見捨てられたような炭鉱の村で起こった都市伝説的怪事件が、あるどんでん返しを境にして、世界中を揺るがしかねない大きな構図に発展していくところにあります。そして、その飛躍の根本にあるのが、一人の女性が持つ狂信ともいうべき信仰なのです。

 つまり、これはセカイ系村映画なのかもしれません。ある女性の信仰と村という小さな関係性が、中間に具体的な過程を挟むことなく、世界的な大問題に接続してしまうのです。どうしたらそんなことが可能になるのかは自分の目で確かめましょう。

 


7.『わらの犬』(1971年)サム・ペキンパー監督


 数学者デイヴィット・サムナーは、妻のエイミーを連れて都会の喧騒を逃れ、妻の地元であるイギリスの田舎に引っ越します。

 ここから長閑な田舎生活を再スタートと思っていたのもつかの間、村の若者たちはデイヴィットのことを完全に舐めきっていて馬鹿にするようになります。さらに、子供っぽくて無防備なところのある妻を性的な意味で狙っているのです。それからは嘲笑を浴び、陰湿な嫌がらせを受ける地獄の毎日、当然夫婦仲もぎくしゃくしはじめます。

 そんなある日、精神薄弱者のヘンリーを車でひいてしまったために家でかくまうことになります。一方で村の若者たちは徒党を組んでデイヴィットの家に乗り込んでヘンリーを連れ出す算段をしていたのです。

 最胸糞村映画。都会の暴力から逃げてきた若い夫婦を襲う嘲笑と暴力。

 具体的なことはネタバレになるので避けますが、陰湿で人を馬鹿にしきっている村人による荒々しい暴力をみることができます。
 村映画で最も恐ろしい瞬間とはなんでしょうか。

 怒り狂った村人に追い立てられて私刑にされることでしょうか。それとも、村の怪しげな宗教的儀式に担ぎあげられることですか。村にはびこるゾンビや吸血鬼、悪霊、連続殺人犯に命を狙われることでしょうか。いいえ、どれも違います。

 野蛮なことには関わらずに生きてきた私やあなたが暴力によって変わってしまう瞬間こそが本当の恐怖です。本作はまさにその瞬間をしっかりと私たちに見せてくれます。村映画にはそれくらいの魔力があるものなのです。

 


+α おしくも選外になったものたち


『ヴィレッジ』(2004年)M・ナイト・シャマラン監督
貴重な本格ミステリ村映画。しかし、致命的につまらない。

 

『哭声/コクソン』(2017年)ナ・ホンジン監督
仲間を集めて山狩りに行くのは村映画らしかったけど。

 

地獄の門』(1980年)ルチオ・フルチ監督
ゴア描写は凄いけど村である必然性が薄い。

 

ドッグヴィル』(2004年)ラース・フォン・トリアー監督
アリ・アスター監督もカタルシスへの持っていき方で参考にしたそうですね。
鑑賞に体力を使うので今回は見送り。

 

 

 

 

 

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逆様の悲劇――『ヘレディタリ―/継承』についての遅すぎる感想


これはまごうかたなく純粋無垢の地獄の心情を描いた作品だと考える。
(『地獄のメルヘン』笠原伸夫 編、現代思潮社、1986年)


 「現代ホラーの頂点」とかいう怪しげな触れ込みでやってきた『ヘレディタリ―/継承』ですが、実際のところ、鑑賞後には何か悪いものに取り憑かれたような感覚がしばらくまとわりつき、目をつぶればトニ・コレットの顔が浮かび上がってくる怪作でありました。といっても、そろそろ記憶も薄れはじめていたのですが、近頃の某ビデオレンタル店で頻繁に予告が流れているのでまたフラッシュバックに悩まされるようになりました。アリ・アスター監督の新作も控えているということなので、厄落としのつもりで感想をどこかに残しておこうと思ったしだいです。感想というよりも、どうして近年のホラー映画の中でこの作品が突出して印象に残ったのか、その理由についてちょっと考えをまとめてみたと言った方が正確かもしれません。
ここから先は、視聴していることが前提で話が進みますし、なぜか関係のない三島由紀夫「真夏の死」のネタバレも行っているのでご理解のうえ読み進むようお願いします。

 

 

 本作が面白い理由を家族劇であるとか伏線回収芸のようなもので説明しようとする試みは、すでにあちこちで繰り返されているので、その辺のことはうっちゃります。私が問題にしたいのは、オカルトホラーとしてみれば作中で起こる出来事は伝統にそっているのに、どうしてこんなに新鮮な感じを受けるのかということです。家族が不可解な理由で不幸な目にあったり、変な宗教団体が暗躍したりすること自体はオカルトホラーでは普通のことです。にもかかわらず鑑賞後の私には何か全く今までとは違うものに触れたという感覚がありました。それは不思議なことですが、この映画が普通の構成とは逆様に物語が進行していたからじゃないかというのが、今のところの私の結論です。
 逆様に物語が進行するとはどういう状態のことかと言いますと、それをわかりやすく体現しているのが、三島由紀夫の「真夏の死」だと思います。この短篇とよくわからないホラー映画を結びつけたのは、たぶん私の脳が起したバグなんですが、バグにも何か意味があると信じたい。
 とにかく、この短篇はたいへんよいものなので皆さんも読んでみてください。三島は自作解説でこの短篇の狙いを次のように説明しています。
「これがギリシア劇なら、最後の一行からはじまって、冒頭の破局を結末とすべきである」「即ち、普通の小説ならラストに来るべき悲劇がはじめに極限的な形で示され、〈中略〉癒えきったのちのおそるべき空虚から、いかにしてふたたび宿命の到来を要請するか、というのが一編の主題である」
 これは、伊豆今井浜で実際に起こった事件を題にとったお話だそうで、はじめに馬鹿馬鹿しいような事故が起こることで平凡な生活に亀裂が入り、そこからは地獄の心情としかいいようのないものがじわじわと描かれる構成になっています。最も決定的な悲劇が冒頭に起こってしまって、そこから先は何も出来事らしい出来事は起こらずに物語は進んでいく、それでも最後の一行に向けて物語の緊張感は否応なく高まっていくというわけです。そして、このお話はラストで運命としか言いようのない地点にたどりついてしまいます。
 『ヘレディタリー/継承』も破滅的な事故が起こってしまってからの地獄の日々が滋味に富んだ作品でありましたが、単にそういった類似点があるというだけのことが言いたいのではなくて、その類似性こそ、この映画が意外性と悲劇的運命を両立させるためにたくらんだ構造の正体なのではないかということです。油断してみていると、チャーリーの死を単なるサプライズとして評価してしまいがちですが、そこからが逆様のはじまりです。本来はクライマックスに持ってくるべき破局を序盤に配置することで、その後の展開を予想のできないものにして、なおかつ通常の物語を逆様に進行することで変えられない運命ということも同時に表現してみせたのです。本来、意外性を保ちつつ悲劇的運命に至ることは困難です。なぜなら、意外性を保つということは観客の予想を常に裏切り続けなければなりませんが、運命は定められた不可避のものであるため、予想外のことは起こらないのです。特に今回は死んだ祖母という明確に運命を操っている存在が示されているので、さらに困難になるはずです。しかし、運命が逆様に流れていくとすればどうでしょう。通常とは違う順番に事件が起こることに【意外性】が生まれ、逆様に同じ道を辿っているだけなので【悲劇的運命】から逃れられないのも自明なのです。
我々はすぐに気がつくべきでした。どうしてミステリアスで不思議パワーを秘めた少女が真っ先に死ぬんでしょうか。最初に死ぬべきは、将来の夢も希望もなくて女の尻を眺めるのが趣味の無気力人間の方であるべきです。つまり、普通のホラー映画であれば、ピーターが生贄にされることで悪魔が降臨し、母親は孤軍奮闘で家族を守ろうとするが、ミステリアスな少女が悲劇的な破滅を迎えるという流れを辿るべきではなかろうかということです。しかし、実際には逆様にことは起こりました。
 比較的記憶に新しい映画だと『キャビン』もホラー映画の定石から死ぬ順番をずらしていくことで意外性を演出していました。あれも【意外性】と【世界のルールに抗う】ということが同時に表現できていて素晴らしかったですね。
 ここまで書いて思ったのですが、「真夏の死」の話は要りましたかね?