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雑文置き場

逆様の悲劇――『ヘレディタリ―/継承』についての遅すぎる感想


これはまごうかたなく純粋無垢の地獄の心情を描いた作品だと考える。
(『地獄のメルヘン』笠原伸夫 編、現代思潮社、1986年)


 「現代ホラーの頂点」とかいう怪しげな触れ込みでやってきた『ヘレディタリ―/継承』ですが、実際のところ、鑑賞後には何か悪いものに取り憑かれたような感覚がしばらくまとわりつき、目をつぶればトニ・コレットの顔が浮かび上がってくる怪作でありました。といっても、そろそろ記憶も薄れはじめていたのですが、近頃の某ビデオレンタル店で頻繁に予告が流れているのでまたフラッシュバックに悩まされるようになりました。アリ・アスター監督の新作も控えているということなので、厄落としのつもりで感想をどこかに残しておこうと思ったしだいです。感想というよりも、どうして近年のホラー映画の中でこの作品が突出して印象に残ったのか、その理由についてちょっと考えをまとめてみたと言った方が正確かもしれません。
ここから先は、視聴していることが前提で話が進みますし、なぜか関係のない三島由紀夫「真夏の死」のネタバレも行っているのでご理解のうえ読み進むようお願いします。

 

 

 本作が面白い理由を家族劇であるとか伏線回収芸のようなもので説明しようとする試みは、すでにあちこちで繰り返されているので、その辺のことはうっちゃります。私が問題にしたいのは、オカルトホラーとしてみれば作中で起こる出来事は伝統にそっているのに、どうしてこんなに新鮮な感じを受けるのかということです。家族が不可解な理由で不幸な目にあったり、変な宗教団体が暗躍したりすること自体はオカルトホラーでは普通のことです。にもかかわらず鑑賞後の私には何か全く今までとは違うものに触れたという感覚がありました。それは不思議なことですが、この映画が普通の構成とは逆様に物語が進行していたからじゃないかというのが、今のところの私の結論です。
 逆様に物語が進行するとはどういう状態のことかと言いますと、それをわかりやすく体現しているのが、三島由紀夫の「真夏の死」だと思います。この短篇とよくわからないホラー映画を結びつけたのは、たぶん私の脳が起したバグなんですが、バグにも何か意味があると信じたい。
 とにかく、この短篇はたいへんよいものなので皆さんも読んでみてください。三島は自作解説でこの短篇の狙いを次のように説明しています。
「これがギリシア劇なら、最後の一行からはじまって、冒頭の破局を結末とすべきである」「即ち、普通の小説ならラストに来るべき悲劇がはじめに極限的な形で示され、〈中略〉癒えきったのちのおそるべき空虚から、いかにしてふたたび宿命の到来を要請するか、というのが一編の主題である」
 これは、伊豆今井浜で実際に起こった事件を題にとったお話だそうで、はじめに馬鹿馬鹿しいような事故が起こることで平凡な生活に亀裂が入り、そこからは地獄の心情としかいいようのないものがじわじわと描かれる構成になっています。最も決定的な悲劇が冒頭に起こってしまって、そこから先は何も出来事らしい出来事は起こらずに物語は進んでいく、それでも最後の一行に向けて物語の緊張感は否応なく高まっていくというわけです。そして、このお話はラストで運命としか言いようのない地点にたどりついてしまいます。
 『ヘレディタリー/継承』も破滅的な事故が起こってしまってからの地獄の日々が滋味に富んだ作品でありましたが、単にそういった類似点があるというだけのことが言いたいのではなくて、その類似性こそ、この映画が意外性と悲劇的運命を両立させるためにたくらんだ構造の正体なのではないかということです。油断してみていると、チャーリーの死を単なるサプライズとして評価してしまいがちですが、そこからが逆様のはじまりです。本来はクライマックスに持ってくるべき破局を序盤に配置することで、その後の展開を予想のできないものにして、なおかつ通常の物語を逆様に進行することで変えられない運命ということも同時に表現してみせたのです。本来、意外性を保ちつつ悲劇的運命に至ることは困難です。なぜなら、意外性を保つということは観客の予想を常に裏切り続けなければなりませんが、運命は定められた不可避のものであるため、予想外のことは起こらないのです。特に今回は死んだ祖母という明確に運命を操っている存在が示されているので、さらに困難になるはずです。しかし、運命が逆様に流れていくとすればどうでしょう。通常とは違う順番に事件が起こることに【意外性】が生まれ、逆様に同じ道を辿っているだけなので【悲劇的運命】から逃れられないのも自明なのです。
我々はすぐに気がつくべきでした。どうしてミステリアスで不思議パワーを秘めた少女が真っ先に死ぬんでしょうか。最初に死ぬべきは、将来の夢も希望もなくて女の尻を眺めるのが趣味の無気力人間の方であるべきです。つまり、普通のホラー映画であれば、ピーターが生贄にされることで悪魔が降臨し、母親は孤軍奮闘で家族を守ろうとするが、ミステリアスな少女が悲劇的な破滅を迎えるという流れを辿るべきではなかろうかということです。しかし、実際には逆様にことは起こりました。
 比較的記憶に新しい映画だと『キャビン』もホラー映画の定石から死ぬ順番をずらしていくことで意外性を演出していました。あれも【意外性】と【世界のルールに抗う】ということが同時に表現できていて素晴らしかったですね。
 ここまで書いて思ったのですが、「真夏の死」の話は要りましたかね?