次に挙げた小説・漫画の真相に触れていますので、未読の方はご注意ください。
・山岸凉子「夜叉御前」
・いだ天ふにすけ「手紙」
・カーター・ディクスン『貴婦人として死す』 ※脚注内
いだ天ふにすけ「手紙」は、COMIC快楽天 2024年 07 月号に掲載された成人向けマンガである。そして同時に、マンガ表現における叙述トリックに挑戦した意欲作でもある。
様々な作品があふれ返っている現代において、叙述トリック的な仕掛けのあるマンガ作品はそれほど珍しいものではない。
それでも、私が本作に強く興味をひかれた理由は、作者自身が自作解説において「叙述トリックがやりたかった」と宣言しているのを目にしたからだ。*1
話の展開に意外性を持たせるための手段としてではなく、目的として叙述トリックを行使した漫画作品となると、それはかなり数が限られる。マンガにおける叙述トリックの有用性を考えるなら、本作は貴重なサンプルになるはずだ。
- 叙述トリックとは何か?(あるいは、筆者の態度表明について)
- マンガは如何にして叙述トリックを実践してきたのか?(先行作品について)
- 叙述トリックでマンガは何を表現するのか?(いだ天ふにすけ「手紙」について)
- 成人向けマンガは男の顔をしていない
叙述トリックとは何か?(あるいは、筆者の態度表明について)
そもそも、叙述トリックとは何なのか?
いくら最近ではミステリマニア以外でも当たり前に使われる言葉になってきたとはいえ、その疑問から話をはじめるべきだろう。
まずおさえておくべきなのは、叙述トリックは一般的な小説技法の用語ではなく、ミステリマニアの間から自然発生的に生まれた言葉であるということである。
つまり、何か学術的に定義の定まった言葉ではなく、明確な提唱者がいるわけでもないので、それを使う人によって意味に揺らぎがあるのだ。
さて、叙述トリックを説明する際、「作者が読者を欺くトリック」というフレーズがよく使用される。
しかし、このような説明は定義として十分に役割を果たしているだろうか。あるいは、以下のような疑問を抱く人もいるかもしれない。
「それって、何かを説明したようでいて何も説明していないも同然なのでは?」
そうなのだ。「作者が読者を欺くトリック」という言葉が指し示す範囲は、あまりに広すぎる。その定義では、叙述トリックとは言えないものも含まれてしまう。
そもそも、ミステリ作品には必ず作者が存在しており、作者は読者を騙すために書き方を工夫することが常である。そういう意味では、ほとんどのミステリ作品は叙述トリックが使われているとすら言えるのではないだろうか。
作者が読者を騙そうとする時、安直に考えるのならば、小説の中に嘘を描いてしまえばいいわけだ。しかし、当然ながら、それは叙述トリックとして認められることはない。それがミステリ作品における【トリック】である以上、読者に対するフェアな謎解きであることが求められるからだ。
さらに、注意すべきなのが、叙述トリックと「信用できない語り手」の問題を切り分けて考えるべきだということだ。「信用できない語り手」作品はミステリに限らないので、読者に対するフェア性を気にする必要はない。まったくの出鱈目や虚偽を、読者に吹き込んでも全く問題ないのだ。*2
「叙述トリック」と「信用できない語り手」は、(その発生の歴史にはおおいに関連があるが、今となっては)全くの別々の進化を辿った小説技法なのである。
では、結局のところ、叙述トリックをより正確に定義するにはどうすればいいのだろうか。
そこで参考になるのが、自らも積極的に叙述トリックを活用した創作を続けるミステリ作家・我孫子武丸が、「叙述トリック試論」において示した以下の定義である。
「小説における、作者と読者の間の暗黙の了解のうちの一つあるいは複数を破ることによって読者をだますトリック」
さすがミステリ作家が考えた定義というだけあって、より叙述トリックの本質に迫っているように思う。
ただ読者を騙せれば何でもいいというわけではないのだ。作者と読者の間にある【暗黙の了解】が破られるからこそ、叙述トリックは読者に衝撃を与えうるということだ。
しかし、定義だけを言われてもピンとこない読者が多いことだろう。そこで、次の章からはマンガの実作例を見ながら叙述トリックの本質がどこにあるのか考えていきたい。
また、今後の論をスムーズに進めるため、「作者が読者を欺くトリック」を【第一の定義】、「小説における、作者と読者の間の暗黙の了解のうちの一つあるいは複数を破ることによって読者をだますトリック」を【第二の定義】ということにしたい。
マンガは如何にして叙述トリックを実践してきたのか?(先行作品について)
例えば、「作者が読者を欺くためのトリック」という定義を額面通りに捉えるなら、山岸凉子「夜叉御前」は叙述トリックだと言えるだろうか。
本作は、15歳の少女が家族とともに山深い一軒家に越してきた日から様々な心霊現象に悩まされる恐怖譚に見せかけて、ラスト数頁にとんでもないどんでん返しが仕掛けられている。読者の多くは、作者に騙されるはずだ。
ここではマンガの視点を15歳の少女に絞ることによって、現実に起こっている出来事を読者から隠すという手法が使われている。
主人公の少女の視点から見ると、この作品はよくある心霊恐怖譚に過ぎない。少女は引っ越し先の家で、鬼の顔をした女の幽霊に付け狙われ、夜になると金縛りのように黒い影に圧し掛かられる、といった怪奇現象に悩まされる。
しかし、ラスト数頁に至って、読者は少女の視点から引き剥がされ、客観的な視点から、この家で本当に起こっていたことを知らされることになる。つまり、夜になると圧し掛かってくる黒い影は少女を犯そうとする父親で、鬼の顔をした女の幽霊は父娘の性的関係に嫉妬した母親なのである。少女は狂気におちているのか、あるいは現実逃避なのか、自分が父親から性的虐待を受けていることは認識できておらず、すべては心霊現象だと解釈していたのだ。
この衝撃的などんでん返しは、読者を欺き驚かせるという点において、抜群の効果を発揮している。叙述トリックの【第一の定義】には、当てはまっているはずだ。
しかし、この作品で使われている手法を叙述トリックと呼ぶことには違和感がある。作者からしてミステリを描いたつもりもないはずなので当たり前だが、読者から見てフェアな謎解きの余地がないのだ。ここで使われている手法は、むしろ「信用できない語り手」のそれであると言えよう。
【第二の定義】と照らし合わせてみれば、本作が叙述トリック作品でないことはより鮮明になるはずだ。
本作において、作者と読者の間の【暗黙の了解】は、そもそも破られていないのだ。読者ははじめから主人公の少女を通してのみ語られる世界を完全に信じているわけではない。だから、少女の狂気によって見えている世界が歪められていたとしても、それ自体に読者が驚愕させられることはない。読者が本作に強い衝撃を受けるのは、あまりの真相の残酷さに対してである。
やはり、本当の意味での叙述トリックを使ったマンガ作品は存在しないのだろうか。
もちろん、そんなことはない。駕籠真太郎『フラクション』は、堂々たる叙述トリック・ミステリである。
そして、本作は同時にメタ・ミステリでもある。作中に駕籠真太郎が登場して「作者が読者を欺くためのトリック」を使ったマンガを描くことを宣言し、実際に作者自身が叙述トリックを実演して見せるわけだ。しかも、そのトリックは、【第一の定義】はもちろんのこと、【第二の定義】をも突破してみせる。
駕籠真太郎が使った叙述トリックは、簡単に言えば「マンガのコマの外側には、見えていない部分がある」という事実を利用したものである。作者自身がマンガのコマを、カメラのように操って、画面の中におさめるものと外すものを選別することで読者を欺いたのである。
通常のマンガ作品であれば、コマの外側で何が起こっているかを読者が気にする必要はない。作者と読者の間には、「コマの中に描かれていることがすべてだ」という【暗黙の了解】があるからだ。駕籠真太郎は、その【暗黙の了解】を破ってみせたのだ。
しかも、本作はメタ・ミステリの体裁をとり、作者自身が作中人物でありながら読者の存在を認知しているという構造をとっている。この構造のおかげで、読者の騙すためにしか役立たない不自然なコマ割りに必然性が生まれており、ミステリとしてのフェア性も保たれているのだ。
マンガでも叙述トリックは使えるということがわかった。しかしながら、それはかなり特殊な事例ではないだろうか、という疑問も同時に浮かんでくる。
『フラクション』は、メタ・フィクションでなければ成立しないような、大掛かりな仕掛けが凝らされた作品だった。マンガにおける叙述トリックというものは、随分と使い勝手の悪いものなのかもしれない。よりシンプルなやり方があればいいのだが……。
綾辻行人 (原作), 清原紘(漫画)『十角館の殺人』は、映像化不可能と言われたミステリ小説の名作を見事にコミカライズした作品である。しかも、ひどくシンプルな方法によってそれを成し遂げているという点で特筆すべき作品だ。
原作の『十角館の殺人』からして、そこで使われている叙述トリックは非常にシンプルなものだ。一人の人物を二人の別々の人物かのように読者に錯覚させる。口で言えば、単純なトリックに過ぎない。
しかし、それをコミカライズするとなると急に困難になる。なぜなら、小説とマンガでは、作者と読者の間にある【暗黙の了解】に違いがあるからだ。小説では通用する【暗黙の了解】が、マンガでも通用するとは限らないのだ。
原作では「作中の登場人物の呼称は統一されているべき」という【暗黙の了解】を破ることで、一人の人物を二人の別々の人物かのように見せかけているわけだが、これは文字情報のみが読者に与えられる小説だからこそ成立するトリックである。なぜなら、二人の別々の人物かのように見せかけているのが同一人物であることは、その人物の顔を見れば一目でわかることだからだ。それゆえに、マンガや映画といった視覚情報に頼った媒体で、このトリックは再現不可能だと考えられてきたのだ。
それでも、この問題は、マンガ版において「一人の人物を、服装や髪形を変えることで、二人の別々の人物かのように見せかける」という非常にシンプルな荒業によって突破されることになる。
マンガ版の登場人物たちをよく観察すれば、二人の別人物に見えているのが、服装や髪形が違うだけで同じ顔をした同一人物であると、読者は気づくことができるように描かれてはいたのだ。しかし、ほとんどの読者はそれに気づくことができなかった。なぜなら、マンガ作品には「顔が同じに見えても服装や髪形が違えば別人物である」という【暗黙の了解】があったからだと思われる。
一人のマンガ家が描ける顔のパターンには限りがある。だから、登場人物の多いマンガ作品であれば、似たような顔をした人物が登場するというのはままあることなのだ。*3だから、作者と読者の間には、「服装や髪形が違えば、顔が似ていてもそれは別人物である」という【暗黙の了解】がある。これは、必要から生まれたものだったはずだ。
マンガ版における叙述トリックの処理方法は、あるいは苦肉の策だったのかもしれない。ただ、結果的にマンガでしか成立しえない叙述トリックの本質に近づくことができたのだ。
叙述トリックでマンガは何を表現するのか?(いだ天ふにすけ「手紙」について)
さて、やっといだ天ふにすけ「手紙」の話に移ることができる。
まずは、簡単に作家紹介といきたい。いだ天ふにすけは、『COMIC快楽天』系列を中心に活動している成人向けマンガ家であり、デフォルメされた可愛い絵柄でありながらハードなセックス描写に定評がある。その作風から男性向け商業誌で活躍しているにもかかわらず、女性からも幅広い支持を獲得しており、女性向け同人・通称「がるまに」にも活躍の場を広げている。
そんな作家が叙述トリックに挑戦した作品が、COMIC快楽天 2024年 07 月号に掲載された「手紙」というわけである。
それはこんな話だった。
女子大生・羽口 翔(はぐち しょう)は、同じ大学に通う兄・羽口 唯(はぐち ゆい)との肉体関係を断ち切れずにいた。人目を忍びながら続ける禁断の関係とは裏腹に、翔は唯に対する恋心を募らせていく。こんな後ろめたい関係は今日でやめよう。そう決心した彼女は、兄との最後のセックスを貪るように味わうのであった。そして数年後、普通の男と結婚することになった彼女のもとに、一通の手紙が届けれた。その手紙に書かれていた内容とは……。
この作品は、兄妹との近親相姦を描きながら、その時の心情をモノローグで振り返るという構成になっている。
このモノローグは、妹・翔のものだと思いながら読者は読み進めることになるのだが、最後の手紙を読むことによって、実は兄・唯のものであるが明らかにされる。つまり、本当は兄のものであるモノローグを妹のものであると錯誤させるという叙述トリックが使われている作品なのだ。
成人向けマンガは男の顔をしていない
種明かしをしてしまったところで、本作における叙述トリックの仕組みについてより深く考えてみたい。つまるところ、いかにして作中のモノローグを妹のものであると読者に錯覚させたのか?、ということについてだ。
その答えは、一読すれば明瞭にわかることだが、そもそも作中で常に中心にとらえられているのが妹であり、兄は画面の端に追いやられているからだ。マンガを読んでいる最中に読者の注意が兄に向くシーンはかなり限られており、明らかに妹が主役として描かれているように見えるのだ。マンガの中にモノローグがあれば、その近くにでかでかと描かれている人物のものであると考えるのが普通だ。画面端にいる兄の方のモノローグであると考えることはない。
こう言えば、本作で使われている叙述トリックはアンフェアなものに聞こえるかもしれない。しかし、そんなことはない。本作はフェアな叙述トリック作品として、【第二の定義】を満たしている。さらに言うと、もしもこの作品が兄妹の禁断の恋愛を描いた【一般向け】のマンガだったら、この叙述トリックはアンフェアなものとして成立していなかったはずだ。この作品が【成人向け】のマンガだったからこそ、フェアな叙述トリックとして成立しているのだ。
つまり、成人向けマンガ、それも【男性向け】の作品においては、「何においても女性の痴態が優先して描かれる」という【暗黙の了解】が作者と読者の間に存在することが重要なのだ。一般向けの恋愛漫画であれば、女性と男性の心情は(ある程度)均等に描かれるべきだ。しかし、成人向けマンガでは男性の心情描写はスポイルされることが当たり前だ。*4男性読者は女性の心情に興味こそあれ、男の考えていることを知りたいとは思っていないわけだ。
例えば、成人向けマンガにおいて、男の登場人物が顔の描かれていないのっぺらぼうのような姿で描かれることはよくある。顔が描かれていたとしても、セックス中にそれがフォーカスされることはない。成人向けマンガの読者にとって、男性キャラの表情や心情が見えることはノイズとしか考えられていないことの証左だ。
本作は、成人向けマンガ特有の【暗黙の了解】を破ることによって成立している、稀有な叙述トリック作品なのである。
新しい叙述トリックを生み出すということは、新しい【暗黙の了解】を探すということに等しい。マンガにおける叙述トリック表現は、まだまだ未開拓の世界である。世界は広い。
*1:作者自身が「pixivFANBOX」において自らの創作意図を解説しており、そこで意識して叙述トリックを使用したことが語られている。
*2:ただし、話をややこしくするようだが、「信用できない語り手」作品の中にもフェアなミステリとして成立している作品はある。例えば、カーター・ディクスン 『貴婦人として死す』がそうだ。物語の語り手であるクロックスリー医師が、真犯人のことを自分の息子であるがゆえに無意識に嫌疑から外してしまっているという設定によって、読者の目を真犯人からそらすことに成功している作品である。読者は語り手の視点を通してしか事件を知ることができないので、語り手が偏見をもっている場合は得られる情報に何かしらの欠落が生じるわけだ。しかも、語り手が真犯人と血縁関係にあることは読者にも示されているので、犯人あてのフェア性もぎりぎりのところで保たれている。『貴婦人として死す』の仕掛けを叙述トリックだと言う人もいるだろうが、個人的には【語り手】を使ったミステリ的なテクニックとして、別立てで扱った方がいいと考えている。
*3:あだち充が描くキャラクターはどの作品を読んでもほとんど同じなように
*4:ここでは男性向けに絞った話である。「がるまに」においては男の顔も主菜になりえる。