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雑文置き場

【偶然とミステリ】ハリー・スティーヴン・キーラー『ワシントン・スクエアの謎』

今回は、関西ミステリ連合OB会の読書会用レジュメとして、ハリー・スティーヴン・キーラー『ワシントン・スクエアの謎』をとりあげる。

 

まずは、簡単にハリー・スティーヴン・キーラーの日本における受容について取り上げよう。

『ワシントン・スクエアの謎』が刊行された直後は、論創社も威勢のいいことを言っていたのだけれど、残念ながら2020年2月以降続報はないようだ。

 

 

しかしながら、【奇想天外の本棚】の方で救われそうな未来が見えてきたっぽい。捨てる神あれば拾う神ありという状況である。

 

 

 

 

1.ハリー・スティーヴン・キーラーとは

二つ名:

史上最低の探偵小説家、探偵小説界のエド・ウッド

 

経歴(解説より):

1890年のシカゴ生まれ、父親を早くに亡くし、芸人相手の下宿宿を経営していた母親に育てられる。(母親はその後も三回結婚している。)

少年時代のキーラーは電気工学関係の学校に通いながら短編小説を書いて大衆雑誌に寄稿していた。ところが、二十歳になったところで母親によって精神病院に送り込まれることになる。一年後に退院したキーラーは鉄工所で電気工とした働く傍ら小説の執筆をつづけ、生涯で七十冊を超える長篇作品を残した。

 

ここまでは、巻末解説を読めばわかることである。ここからは、彼が本作意外にどのような作品を世に送り出していたのか、それを確認しようと思う。

※もちろん原文を読んだわけはなくて、キーラーマニアの柳下毅一郎の著作を参考にしました。これらの作品が訳される日を願って。

 

『The Case of the 16 Beans』

主人公ボイスは、祖父から遺産として豆を十六粒相続する。ボイスは、中国の叡智を集めた本「出口」を頼りに、豆の暗号解読に挑む。

 

『The Mysterious Mr.I』

本書の主人公は出会う相手ごとに違う名前を名乗る。例えば、ある時は古銭研究家であり、彼の話や経歴は嘘ばかりである。本書を読み終わっても彼の本名も、その目的さえもちっともわからないままである。

 

『The Riddle of the Travelling skull』

主人公が市電で鞄の取り違えをしてしまい、取り違えた鞄には頭蓋骨と銃弾、それに一篇の詩が入っていた。

 

『The Way Cut』

キーラーの作品に度々登場する「古代中国のすべての叡智を集めた本」を再現したものだ。収録内容例としては、「柿を植えるのにふさわしいのは、歯が抜ける前である」などがる。

 

 

 

 

2.偶然に起こったこと、そしてミステリの先

※ここからはネタバレ注意

 

さて、ミステリマニアの心理には、偶然を避けようとする心と歓迎する心の二つがあるように思う。

偶然を避けようとするのは、それがミステリおけるゲーム性(フェアネス)、さらにはリアリティを毀損する可能性があるからだ。過剰な偶然を推理に盛り込むことは、ミステリにとって破滅の道だ。例えば、ミステリ界において最もこすられてきたのが「トンネル効果」である。ほとんど奇跡というべき現象であるが、量子力学的な思考によれば人間が壁をすり抜けることも可能になしかし、しかし、通常のミステリにおいては、「トンネル効果」が真剣に検討されることはない(逆説的な意味で検討される作品はいくつかあるが)。なぜなら「トンネル効果」まで実現可能なものとして検討してしまうと、あらゆる密室殺人がそれで説明がついてしまうからだ。そこにおいてもはや、作者と読者、犯人と探偵のゲームは成立しない。またあり得ない偶然が都合よく起こることは、作品のリアリティすらも下げてしまうことになる。

では、ミステリマニアはあらゆる状況で偶然の介入を拒むのかと言えば、そういうわけではない。むしろ、ほどよい偶然が起きることは、むしろ望まれていると言えるだろう。例えば、「プロパビリティの犯罪」と呼ばれるようなミステリ群は、意図的に偶然性を犯罪計画の中に織り込んでおく様式である。また、犯人が長大な犯罪計画を練れば練るほど、計画の実行段階において偶然が入り込み、犯人が計画に修正を強いられることが常である。それは、事件が複雑化すればするほど、偶然の要素が入った方がリアルだからだ。逆に偶然の全く起こらない物語はどこか作り物すぎるのだ。

つまり、ミステリとは、偶然の手綱をとってコントロールしようと苦心してきた文芸ジャンルだと言える。しかし、ハリー・スティーヴン・キーラーはそういったことに全く頓着せずに創作を行っていたようだ。

今作の作中で起こった驚くべき偶然を列挙してみよう。

 

・主人公ハーリングは、たまたま盗みに入った廃屋の中で死体を見つけた。

ハーリングが犯行現場から逃げようと飛び乗った車を運転していた女は、たまたま殺人事件の関係者だった。

・犯行現場付近で車に運転していた女は、ハーリングが過去に命を救った女性ヴァンデルホイデンだった。

・廃屋で殺されていたのは、自分が探していたS・P・ボンドだった。

・ヴァンデルホイデンと探偵モーニングスターは以前から事件現場を見張っていたが、事件当日だけ偶然の事故によって見張ることができなかった。

・犯行の凶器に使われたものは、ヴァンデルホイデンが前日にたまたま落としたものだった。

・探偵モーニングスターは、ワシントン・スクエアのホームレス仲間とたまたま同一人物だった。

ハーリングは新聞広告で募集されている五セント白銅貨をたまたま持っていた。

ハーリングが五セント白銅貨と交換して手に入れたのは偽札であり、その偽札は全国的なニュースになっている偽札事件と偶然同一のものだった。

・遺産の隠し場所を示す手掛かりである五セント白銅貨は、奇妙な偶然から新聞売りの手に渡って行方不明になってしまった。

ハーリングと探偵モーニングスターは、それぞれの理由で犯行現場に忍び込んで偶然に再会することになった。

ハーリングがルビーを渡せと何者かから脅されたときに、たまたま偽物のルビーを持っていたので切り抜けられた。

・偽札の専門家デヴォンツリーは、ハーリングが「S・P・ボンド」と書かれた封筒を探す原因になった男だった。しかしこれは「南太平洋(S・P)ボンド」を意味していた。

 

これらの偶然の連鎖をもって、本作をただのご都合主義的な失敗作ととらえる向きもあろう。しかし、これら偶然の連鎖がかえって論理で支配できない存在を意識させ、ただのご都合主義とは違った妙味を生み出している。そして、物語のラストにおいて、これらの蜘蛛の巣状に構築された偶然の蓄積は空と化し、蜘蛛の巣の外側からまったく別の真犯人が立ち上がってくることになる。これをどんでん返しととらええるか、いままでの積み重ねを無駄にしてしまったと考えるか、どちらにしても論理の外側にいる存在が本格ミステリを破壊してしまう本作は、一種のアンチ・ミステリ的魅力にあふれた作品だと言えよう。また、本書を機会にミステリと偶然の関係性について思いを巡らせてみるのも一興かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

あと関係ないですが、私の同人誌寄稿作品を百合文芸4に応募したので、ご覧いただけますと幸いです。

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