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雑文置き場

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』練習問題:第7章

 

 

問一:ふたつの声

①単独のPOVで短い物語を語る。

「なんであんなものをパドックの近くに入れるようになったのかな、猿回しの猿だなんて」彼女の友達は言った。
 京都競馬場パドックでは、競走馬やそれに群がる人々から少し離れた会場の隅に、猿回しの興行が設置されるのが慣例となっていた。
「かわいいじゃない」新井さんは答えた。「それに、見ているとなんか落ち着く。猿を見ていると、自分がカッカして冷静じゃなくなっていることに気付けるんだよね」
 新井さんは、友達から離れて柵に近づいた。柵の中では、レース本番を控えた馬たちが同じ場所をぐるぐると回っていた。新井さんはパドック内の馬を熱心に観察しはじめた。馬たちの様子は心なしか緊張しているように見えた。人間たちも同様だ。なんといっても今日はG1、エリザベス女王杯が開催される。新井さんの隣にいる女性などは、先ほどから尋常ではない発汗がみられた。この場にいる人は皆、大なり小なり人生をかけているのだ。
 ふと、場内に悲鳴があがった。新井さんがいる場所からちょうど反対側のあたりで一人の女が暴れていた。その女は首を激しく振り、柵に体当たりを繰り返していたが、すぐに警備員たちに取り押さえられた。精神力が弱い人間が極限の緊張に晒されると、時にこういうことが起こってしまうのだ。新井さんは、自身も知らぬうちに粘っこい汗を手のひらにかいていることに気がついた。そこで彼女は、こういう状況でこそ落ち着かなければと思い、あえて馬たちから背を向けて会場の隅で芸を続けている猿回しの方を向いた。猿回しの猿は必死の形相で竹馬に乗っていた。

 

②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直す。

「なんであんなものをパドックの近くに入れるようになったのかな、猿回しの猿だなんて」
「かわいいじゃない」
 人間たちの気の抜けた声が京都競馬場パドックに響いた。
 サラブレッドのマイネルジャンビーはパドックの中を周回しながら、今日のレースに出走する人間たちを観察した。馬を鞭で叩いて無理矢理走らせるのは動物虐待だと非難する世論が高まり、馬ではなく人間が走るという現在の形式に競馬が変更されてから一千年が経った。人間が走るようになってから馬が何で競うかというと、レースの予想をするようになった。サラブレッドは、レースの予想をするために品種改良され、育成され、調教を受けるようになった。だから、ジャンビーは大きなレースを前にしても心を乱されるということがなかった。人間が競馬予想をしている頃は、一時の感情に任せて勝つ見込みのない馬に大金を賭けることもあったらしいが、一流のサラブレッドである彼女にはそのような失敗はあり得ない。彼女は完全に客観的な目線でレース結果を予想することができた。
 ジャンビーは改めてパドックの周りに集まった人間たちの細部に目を向けた。案の定、人間たちの中に発汗などの異常な徴候を示しているものがいた。競争能力を高く評価している人間の一人だったが、ジャンビーは評価を下げることにした。また急に暴れ出す人間もいた。柵に身体を打ち付けて出血が見られたため、競走中止となるようだ。もともとこのメンバーの中では地力で劣る人間だったので予想に影響はなかった。ジャンビーが最も期待するのは、前走で驚異の逃げ切り勝ちをおさめた13番のアライサンだ。しかし、彼女はぼんやりした表情で猿回しの猿を見てばかりで気乗りしていない様子だった。ジャンビーは、彼女を本命から外すか大いに悩んでいた。

 

問二:遠隔型の語り手


「なんであんなものをパドックの近くに入れるようになったのかな、猿回しの猿だなんて」白いウインドブレーカーを着た女がそう言うと、隣にいた女は「かわいいじゃない」と答えた。その女は、パドックの隅で演目を続ける猿を見つめて微笑んだ。猿使いの合図にあわせて、猿は五連続で宙返りをきめたところだった。猿を見つめていた女がアウターを脱ぐと、長袖シャツの背中には「13 アライサン」と書かれたゼッケンが貼られていた。彼女は簡単なストレッチをすると、駆け足でパドックの柵に近づいた。白いウインドブレーカーの女は、まだ決心がつきかねるように腕を組んだまま、彼女を見送った。
 柵の中では、馬たちが周回していた。冬毛が伸びてぬいぐるみのようになったものもいれば、身を寄せ合ってうとうとしているものもいた。しかし、身体の方はだらけていても、馬たちの眼は鋭く人間を観察しているようだった。二十歳を超す老馬などは、よく見るために柵の間から頭を突き出してまで、これから走る人間の身体を観察していた。
 そんな中で、甲高い声をあげて暴れまわる女がいた。すぐに数人の男に取り押さえられた。ゼッケンを取り上げられ、肩を押されて退場する女の啜り泣く声が場内に響いた。馬たちは興味深そうに、立ち止まってその様子を見守っていた。煽るように、蹄で柵を蹴りあげる馬もいた。周りにいる女たちは、決してその女を見ようとしなかった。猿は、竹馬の上で震えて、うまく降りられないようだった。

 

 

問三:傍観の語り手


「なんであんなものをパドックの近くに入れるようになったのかな、猿回しの猿だなんて」
 その女は、少しクリーム色がかった白のウインドブレーカーを着ていた。三白眼で性格の悪そうな顔つきをしていた。
 その隣にいた女は「かわいいじゃない」と言って、アウターを脱いだ。背中には「13 アライサン」と書かれたゼッケンが貼られていた。
 そもそも俺たちがパドックに呼ばれるようになったのは、厩猿信仰に端を発するらしい。猿は「馬の守り神」として特に武家の間で珍重され、江戸時代には徳川幕府専属の職業として登用された。徳川幕府が滅んで明治の世になり、ご先祖様たちは大道芸に身をやつしたこともあったそうだ(まったく今じゃ想像もできないことだ)。しかし、再び武家社会がやってきたことで俺たちは、晴れて公務員の身分になった。不満があるとすれば、当の馬たちが俺たちに興味なんか持ってないことだ。予想のために競走用の人間たちを観察することで必死なのだ。逆に人間たちの方が、俺たちに関心を持っている。それどころか、すっかり夢中になっているのだ。アライサンという名の人間なんて、さっきから俺にばかり熱い視線を注いでいる。彼女は、頬を赤くして瞳も感動でうるんでいるようだった。俺はサービスしてやろうと猿使いのおっさんに合図を送った。おっさんは竹馬を取り出した。人間の中には、俺が竹馬をはじめると、悲鳴をあげて喜ぶやつもいた。なんだかアイドルになったようで少し気恥ずかしい気もした。

 


問四:潜入型の作者

 

※『みどりのマキバオー』パロディです。


 季節に衰えはなかった。草木は萌えるためにあり、高い空には風ひとつ吹かず、老いや死の影はどこにも見当たらなかった。
 エリザベス女王杯のファンファーレが吹きならされた時、マイネルジャンビーの瞳には空の青と芝の緑が映し出されていた。彼は購入した人間券を咥えながら、ゲートインを待つ人間たちに視線を向けた。彼が購入した人間券は、「13番 アライサン」と「15番 フエネク」のワイド(※三着までに入る人間の組み合わせを的中させる投票法)だった。彼の予想はオッズもそれほど高くはなく面白味に欠けるものではあったが、それは、このレースが昨年の覇者「アライサン」と同期の実力者「フエネク」のマッチレースになるという確信を持っていたからだ。ただ前走のレースでアライサンは勝ちこそしたものの、最後の直線で失速し、いつもの強さを見せることができなかった。巷では体調不安説もささやかれていた。だからこそ、彼の視線はいつも以上に注意深かったのだ。背中を押されてゲートに入る人間たちの肌にはうっすらと汗が浮き、膚の下に流れる赤い血潮が透けて見えるようだった。全人間が無事にゲートインしたところで、マイネルジャンビーの隣にいた猿回しの猿が興奮して雄叫びをあげた。しかし、いくら入れ込んでも、猿はしょせん猿なので人間券を買うことはできないのだった。
 係員がゲートから離れたところで、各人間がいっせいにスタートをきった。まずハナを主張したのが「イエイヌ」だった。「アライサン」は三番手の好位につけて、「フエネク」は少し出遅れて後方待機といった構えで第一コーナーに入っていった。隊列はほぼ決まったようだった。エリザベス女王杯、コースは芝の二千四百メートル、牝限定の重賞競走(GⅠ)である。全ての世代の、牝の頂点を決めることになるレースだ。ここにいる誰もが人生をかけていた。一番最初に仕掛けたのは、やはりアライサンだった。第三コーナーに入ろうというところで、あっという間に先頭のイエイヌを捉え、第四コーナーに入る前に抜き去った。
 私は何回も何回も一緒に走ってアライサンの本当の強さを知っている。
 フエネクは思った。
 しかし、これ以上は一緒に走ることはできないことも彼女は知っていた。アライサンの身体は、不治の病に侵されているのだった。フエネクは後方待機のまま第四コーナーに侵入した。その時、彼女は観客席にいる猿回しの猿と目が合った。猿の目は「ならば、お前はどうする」と彼女に語りかけているようだった。フエネクは、その問いに声にならない声で答えた。私が絶対に負けずに走り続ける。私が負けずに走り続けて、アライサンの強さを世代を超えて教え続ける。
 今まで後方で我慢していたフエネクの末脚が、最後の直線で爆発した。コースの内に突っ込んで五人以上をごぼう抜きにして、一気にアライサンの後ろにつけた。後ろから迫る絶大な圧力に、もちろんアライサンは気がついていた。かつての彼女であれば、そのプレッシャーに答えるように加速していたはずだったが、今となっては不可能なことだった。彼女がいくら息を吐いても吸うことができず、足元はふらつき、腕も大きく振ることができなかった。アライサンは内ラチに凭れかかるようにして失速していった。そして、フエネクはわき目も振らずに抜き去った。勝敗は決したのだ。フエネクの後ろに迫る者は誰もいなかった。しかし、彼女はまったく力を緩めなかった。それどころか、グングンと加速していた。いや、彼女は先頭に立ってもなお誰かを追いかけていた。
 第五百二十四回エリザベス女王杯マイネルジャンビーも、猿回しの猿も、すべての観衆が、確かにフエネクの少し前を走るアライサンの幻を見た。
 見えないか。
 感じないか。
 伝説はここにある。
 ほら、アライサンはここにある。