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雑文置き場

『Sonny Boy -サニーボーイ-』と『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』~あたまの漂流

この頭は年がら年じゅう漂流していて、よるべない木の葉ぶねのようなものだが、それだけに漂流譚や漂着譚が好きである。

――という書き出しではじまるのは、中野美代子『あたまの漂流』だが、私の頭もこの頃は漂流、いや難破を繰り返してばかりで考えがまとまらない。しかし、まとまらないなりに考えたことを記録に残しておくのもよいかもしれないと思ったのであった。

 

※『Sonny Boy -サニーボーイ-』と『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』についてバリバリのネタバレ有。

 

 

 

 

 

『Sonny Boy -サニーボーイ-』

2021年夏アニメの中でも、漂流を題材にしたあるアニメが話題になった。それが『Sonny Boy -サニーボーイ-』である。この作品は、監督である夏目真悟が手掛けた実験的なオリジナルアニメとして注目を集めた。36人のクラスメイトがまるまる異世界へ送り込まれたところからはじまる物語は、開始当初こそ楳図かずお漂流教室』の現代版をやろうとしているのかと思われていたが、そのような予想を超える展開の連続で、回を重ねるごとにエスカレートする実験的映像表現と観念的世界観が独特なアニメシリーズになっていった。

その難解とも言える作風から、考察自体を諦めている人も多いように感じるが、監督自身が公開しているコメンタリーを読めば、この作品の意図するところが腑に落ちる人もいるのではないだろうか。

 

febri.jp

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これを読めば、設定に対する考察は大きな意味を持たないことがわかると思う。「この漂流は何の意味があるのか」と問われれば、「漂流に意味はない」というのが答えなのだろう。

この作品で描かれていることは、結局のところ、それぞれのキャラクターが持つ特殊能力は個々人の特技や個性、そして、ハテノ島などの漂流世界に存在する奇妙なルールは少年少女が現実世界でさらされている社会ルールのメタファーであろうということだ。つまり、このアニメは現実世界の鏡像として作られたものであり、夏目真悟監督は現実世界をどうやって生きていくべきかというメッセージしか発していないのである。

 

そもそも最終回は何が言いたかったの?

では、夏目真悟監督が視聴者に伝えたかったメッセージとは何なのか。それは最終回に凝縮されているように思う。というわけで、最終回で起こったことを簡単にまとめた。

 

①長良は漂流から帰還し、二年間の年月が経っていたため高校二年生になっていた。帰還した世界を美しいと感じることができない長良は、中学の先生から瑞穂の進学先を聞き出して会いに行ったが、瑞穂は漂流のことを覚えていない様子だった。さらに長良は、駅で希と朝凪が親しそうに話しているのを見かけた。長良は声をかけようとしたが、長良のことを覚えていない様子だったので声をかけずにその場を去った。家に帰った長良は、『ロビンソン・クルーソー』と希のコンパスを見つめながら漂流から帰還した時のことを思い出していた。

②漂流から帰還するために時空間の狭間にたどり着いた長良と瑞穂は、お互いの身体をロープでつないで外の世界に一歩踏み出した。そこには朝凪が待ち構えていて「漂流世界と現実世界に違いなどない」「与えられたものに満足して生きていくべきだ」と二人を説得するが、長良は「僕らは自分で手に入れたいんだ」と応じた。問答の果てに、朝凪は長良へコンパスを託し、長良と瑞穂はコンパスを頼りに決して振り向かずに走り続けた。コンパスを頼りに希が望んでいた可能世界を見つけた長良たちは、瑞穂の状態を固定する能力で自分たちをその可能世界に固定させることにした。(監督はシュレディンガーの猫が入っている箱の蓋を閉じることだと例えている)長良は言う。「これは希がみた光だから」

③一方で、漂流から帰還した瑞穂は、二年の間に祖母や猫が死んでしまったことから現状を受け入れることができなかった。そのために、自分に会いに来た長良のことも知らないふりをして追い返した。その夜に中学校に忍び込んだ瑞穂は、校舎内に漂流世界の入口がないかを探して回った。また、校舎内であれば自分の能力が使えるのではないかと考えて、ガラスのコップを床に落としたが、普通に割れてしまったことで、瑞穂は自分の能力が失われていることを悟った。

④現実を受け止めた瑞穂は、長良に自分から会いに行き、お互いの現状を話し合った。長良は言う。「やっぱり世界は変えられない。だけどこれは、僕が選択した世界だ」瑞穂は言う。「まあ大丈夫だよ。あの島でのアンタが、まだ少しでも残っているなら、大丈夫だ」

⑤長良は、駅構内で鳴いていた燕の雛のことが気になって巣を覗いていた。すると、希が話しかけてきて雛を助けたことを教えてくれた。そこで、希は長良が中学の時に同級生だったことを思い出したが、当然漂流のことは知らないので、長良を放っておいて朝凪の方へ笑顔で駆け寄った。それを見た長良は、少しだけ晴れやかな顔になって歩き出し、「人生はまだこれからだ。先はまだ少しだけ長い」とつぶやいた。

 

できるだけ簡潔に最終回の内容をまとめたつもりだ。これを見てメリーバッドエンドだと思った人もいるようだが、個人的にはハッピーエンドだったと思っている。

長良が、友人である希のみていた光(=希望)に夢を託すが(②)、結局は劣悪な自分の生活環境を変えることはできずに一度は絶望する(①)。しかし、同じように漂流から帰還した瑞穂がまだ自分を信じてくれいることに心を動かされて(③~④)、自分がよりよく生きていくことこそが、この世界を希がみた光に変えていくことだと捉えなおして前に進みはじめる(⑤)。そういうお話だと、私は解釈した。

 

akiba-souken.com

 

あと、サニボについて語っておきたいのは「鳥」と「光」という二つの重要なモチーフについてだ。

「鳥」については、長良たち自身のことを表しているのだろう。漂流世界から脱出する長良と瑞穂に、空を飛ぶ鳥の影が重なるシーンは象徴的だ。特に漂流前の長良が死にかけの鳥を見捨てたことは、閉塞的な状況で(心が)死にかけている自分自身を見捨てたということであるし、最終話で燕を助けようとしたら実は希が先に助けていたエピソードは、長良が自身のことを諦めるのをやめたということ、はじめから希の前向きさで長良は救われていたことを表しているはずだ。

「光」については、希のみていた光(=希望)ということなのだが、光に関する超重要人物でありながら忘れられているキャラクターがいる。それは、明星である。彼はアニメの折り返し地点である第六話において主人公たちと別れてしまったので、重要人物とは見なされにくいキャラだろう。しかし、彼は希と対になっているキャラクターだと私は考えている。希は自分一人だけが光をみることができるが、周りの人間とそれを共有することができない能力【コンパス】を持っていて、明星は自分のイメージを他人に共有できる能力【Hope】を持っていた。

希はあくまで希望が存在することを示唆するだけで、最終話になっても希がどのような光を見ていたのか他の人間にはわからない。一方で、明星は希望を語り、それを共有する能力を持っているために箱舟を造ることに成功した。また結果的に、多くの漂流者たちは明星についていく決断をし、漂流世界における安寧を得ることができた。明星は希望を語ることで多くの人間を救ったと言えるだろう。逆に、希の光を探しに行くという決断をした長良たちは、漂流世界を抜け出すことに成功し、自分たちの未来に希望を抱くことができるようになった。希の光は、多くの人を救うのではなく、自分たちだけを救ったのだが、それはそれで、ただの安寧以上に素晴らしいものだと私には思える。

 

『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』

ところで漂流と言えば、ジェームズ・ガン監督作品『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』が思い出される。おいおい、新スースクは漂流と関係ないだろ、とツッコミが聞こえてきそうだが、この作品はざっくり言えば犯罪者集団が刑罰の代わりに孤島のミッションに送り込まれるという話である。サニボでも熱心に引用されていたダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー』のモデルになったのはアレクサンダー・セルカーク、史実の彼は難破して島に流れついたわけではなく、海賊船の船長ともめたせいで刑罰として孤島に置き去りにされたのだ。島への置き去りというのも漂流テーマの近縁だと言っても、そう的外れではないだろう。

そこで思い返してみると、サニボと新スースクは意外と共通点が多いではないか。例えば、牢獄(学校、刑務所)に入れられていたキャラクターが島(ハテノ島、コルト・マルテーゼ島)に送り込まれて脱出する物語構造。キャラクターの特殊能力が、そのキャラ自身が持つ欠点やトラウマと密接に結びついていること。そして、サニボでも重要なモチーフであった「鳥」と「光」である。

 

もしかして、この2作品って似てる!?

「鳥」については、サニボと同じように登場人物たち自身の状況の投影である。(ツイッターでやらかして映画界から干されそうになったジェームズ・ガン自身の投影であるという読みもあり得るが、、、)刑務所内でサバントに殺される小鳥が、仕返しのようにサバントの死体をついばむオープニングは、アメリカに使い捨てられるはずだったスーサイド・スクワッドが、アメリカの裏をかく展開を予見していたし、シルヴィオ・ルナ将軍が飼っていた鳥が檻に入れらたまま焼かれたのは、コルト・マルテーゼ島の住人がアメリカ政府とスターロの争いに巻き込まれて虐殺される状況を先取りしたものだろう。そして、もっとも特色ある鳥の使い方と言えば、ハーレイ・クインの妄想の中に登場するカートゥーン調の小鳥であるが、これはハーレイ・クインが自身のことをカートゥーンの登場人物のように考えている完全な狂人であることを表している。しかも、これがスターロとのラストバトルにおいて、ハーレイ・クインの周りを鳥のように飛び回るドブネズミに転換されるところが鮮やかだ。

「光」のモチーフについては、二つ登場する。サニボにおける希と明星のように、役割がわけられているのだ。つまり、明星がラットキャッチャー2で、希がハーレイ・クインである。ラットキャッチャー2は父親から譲り受けたネズミを操るライトを持っていた。そして、彼女は「民衆を導く自由の女神」ような姿で、明星と同じようにわかりやすい希望の光で多くの者を救った。それに比べると、ハーレイ・クインは誰かを救おうとしたわけではなく、自分が見ている光を追いかけただけの人であったが、それが逆に彼女の存在を特別で力強いものにしていた。ラストバトルにおいて、ハーレイ・クインは光の象徴である星型の化け物につっこんでいき、自身の妄想の中にしか存在しないような美しい光の世界に同化していくのであった。サニボの希が見ていた光って、スターロの身体の中みたいな感じだったら嫌だなというところで、私の頭の漂流は終了としたい。