村村

雑文置き場

ワンエグを援護するための20の方法

――誰かがふと思った。

『ワンエグを守護らなければ……』

 

※これはワンダーエッグ・プライオリティを特別編までみた上で援護してみようという趣旨で書いたので、当然の如く、隅から隅までネタバレです。

 

ネタバレ該当作品

野島伸司関係作品:

ワンダーエッグ・プライオリティ』『高校教師』『未成年』『リップスティック』『フードファイト

野島伸司と関係のない作品:

魔法少女まどか☆マギカ』『少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』『さらざんまい』

 

 

 

 

 

 

方法1:結論として

野島伸司って、何も責任取る気がないのである。

  ――ナンシー関『何もそこまで』(角川文庫)

 

 ワンエグを批判する際に使われている言葉は、20年前にナンシー関が言っていたことと非常に似ている。 曰く、「最後に全部セリフにしちゃうのはねえ。確実だけどさ。バカみたい。」「野島伸司、保険男。過激だ、問題作だって言われて、それに乗っかって食ってるなら、責任取る覚悟くらいしろ。」である。

 これは1995年のTBSドラマ『未成年』に対する酷評であるが、ワンエグに対する批判と重なる部分があるように見える。つまり、過激な描写や謎によって視聴者の興味を引きながらも明確な答えを出さずに逃げたという評価だ。しかし、その評価は妥当だろうか。私は妥当ではないと思う。

 ワンエグが作品全体として取り組んでいるテーマは、少年少女を搾取し殺してしまうような社会の仕組みに対してどう対峙するかということであり、1990年代以降のアニメ作品(例えば『少女革命ウテナ』『魔法少女まどか☆マギカ』など)が一貫して取り組んできたものである。そうした歴史的積み重ねのあるテーマに対して、野島伸司は「プライオリティ」という言葉を通して新しい態度を示したのだと考える。

 

 

 方法2:野島伸司

 野島伸司がワンエグを通して何を言いたいのか検討するためには、そもそも彼がどのような作家なのかを見ていくことにも意味があるだろう。

 野島伸司は、1982年に『時には母のない子のように』で第2回フジテレビヤングシナリオ大賞を受賞してデビューした。フジテレビヤングシナリオ大賞とは、当時のフジテレビがテレビドラマ業界で若手の脚本家を育てるために創設したものらしい。では、野島伸司に求められた若い感性とは何だったのだろうか。1980年代にドラマ業界で流行っていたのは『男女7人夏物語』に代表されるようなトレンディドラマであり、おしゃれな美男美女による恋愛ものが当時のメインストリームだったのだ。そうした状況の中で野島に求められたのは、美男美女による恋愛中心主義的な価値観に対するカウンターだろう。彼の初期の代表作である『101回目のプロポーズ』が分かりやすい。主役に美男からかけ離れた武田鉄矢を配置し、美女と野獣カップルなどと言われるほどだった。そして、ここから野島伸司の暴走は加速する。

 トレンディドラマに反旗を翻した野島が、『愛という名のもとに』を挟んで次に発表したのが、教師と生徒による禁断の恋愛、近親相姦、自殺などの社会的タブーを題材にした『高校教師』である。ここに至ると、かろうじて恋愛ものの体裁をとっていても主題は完全に社会的タブーの方へ移行をはじめている。その後も『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』『未成年』『聖者の行進』という「TBS野島伸司シリーズ」を通して、いじめやマスコミの偏向報道障碍者差別など、社会問題を描き続ける。それらの作品に共通していることは、当時の社会問題を反映していることだけではない。大人たちから搾取される社会的弱者(子供や障碍者など)が真に純粋無垢な存在であり救われるべきだというメッセージを共通して持っている。そのようなメッセージを盛り込むのは新しかったのだろうが、一方で社会的弱者を虐げる社会構造に対してどう対峙すればいいのかという結論が作品内で示されないことには不満の残るシリーズだ。

 1995年に放送された『未成年』を例にしてみてみようと思う。『未成年』は社会や家庭の中で孤立している少年少女が出会うところからはじまる。彼らは山奥の廃校で共同生活するようになり、その過程で様々な事件を起こして警察やマスコミから過激派テロリストのレッテル張りを受けることになる。その結果、少年少女のごっこ遊びのような共同生活は破綻して、あさま山荘事件オウム真理教を連想させるような悲劇へと転がり落ちていく……というようなあらすじなのだが、このドラマは最終回においてナンシー関が批判したような無責任さを見せつける。最終回、機動隊に囲まれた仲間たちが逮捕あるいは銃殺されていく中で唯一逃げ延びた主人公は、学校の屋上に登って演説をはじめるのである。その演説は「俺たちを比べるすべての奴らを黙らせろ。お前ら、自分が無力だとシラけるな。矛盾を感じて怒りを感じて言葉に出してNOって言いたい時、俺は、俺のダチは、みんな一緒に付き合うぜ!」といったものである。一見いいことを言っている風だが、どうにも具体性に欠けて、現実に起こっている事件に立ち向かうには頼りない言葉ではないだろうか。しかも、この演説を聞いた学生たちは実際に奮起し、主人公たちが正当な裁判を受けられるようにするために社会運動をはじめるのだから、かなりのご都合主義的展開である。最終回で演説や長々としたモノローグを使ってすべてを説明してしまう。言葉だけで世界を変えてしまおうとする空虚さ。これが野島伸司脚本作品の欠点に他ならない。

 くしくも、同年にはじまった『新世紀エヴァンゲリオン』が魅力的な謎やそれまでの展開を投げ出して私小説的な自分語りをはじめてしまったことに1990年代の宿痾を感じてしまうが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見る限り全く成長していない庵野秀明に比べると(成長したという意見もあるだろうが)、ワンエグにおける野島伸司はもう少し具体的な行動に移そうとする意識を感じる。言い換えると、自分語りとしての「未成年の主張」をやっているだけではなくて、世界に対してどういう態度をとるべきかを考えている。

 

 

方法3:第一話『子供の領分』より

14歳の少女・大戸アイは、深夜の散歩の途中で出会った謎の声に導かれ、不思議な「エッグ」を手に入れる。
「エッグ」を持て余していたアイが、翌日昨夜の場所に再び向かおうと玄関のドアを開けると、そこはなぜか、どこかの学校の校舎に繋がっていた。
不気味な雰囲気漂う校内の様子に戸惑い逃げ込んだトイレで、アイは謎の声に促され、ついに「エッグ」を割ってしまう……。

  ――公式サイトのあらすじより

 

 ここからは各話を振り返りつつ、野島伸司がワンエグで描こうとした物語について迫っていきたい。

 

・「彼氏って別れちゃうけど、親友って永遠でしょ」「もう見て見ぬ振りはしない」

 第1話において、この物語のスタンスが説明されているセリフ。

・小糸ちゃん:

 特別編までみると周りから浮いていて友達のいなさそうなやつに声をかけているだけで自己保身の人だとわかる。しかし、その出会いがアイを救ったことは間違いないし、その価値が減るわけではない。 アイもそれがわからないほど鈍くはないと思う。

 

 

方法4:背景美術による

 ここまで野島伸司の作家性に絞った話をしてきたわけだが、おそらくは野島がコントロールしていない部分、アニメーションの分野でもワンエグは面白い試みをしている。それは背景美術がフォトリアルに作られていることである。メインキャラの造形は、かなり現代的なアニメの美少女キャラなのだが、背景は他作品と比べて図抜けてリアルである。写真と見まがうような背景の中で動くアニメキャラ、それがどのような効果を与えているか。野島も影響を認めている『魔法少女まどか☆マギカ』と比べてみると、その効果が見えてくる。『まどか☆マギカ』は学生生活パートから魔法少女バトルパートに場面が移り変わるところで背景の演出が変わる。いわゆる「イヌカレー空間」と呼ばれるシュールレアリスティックな背景美術が、現実と魔法の世界を区別しているのだ。一方で、ワンエグでは現実と夢に区別がない地続きの世界である。特に第一話の段階では、どこからが現実の話で、どこからが夢の世界なのかが一見してわからない。これによって視聴者の不意を突いて緊張感を保つことに成功している。背景のモデルが千葉ニュータウンということもあって、いつの間にか周りに人がいなくなってもすぐには気が付けないのだ。(ニュータウンに対する偏見、申し訳ない。)同じ形の家がずらりと並んでいるのもディストピア感があり、開けた場所なのに閉塞感がある。

 

 

方法5:第二話『友達の条件』より

アカと裏アカの声に導かれ訪れた地下の庭園で、エッグを大量に購入する少女・青沼ねいると出会ったアイ。
同じ境遇の相手に興味津々のアイだったが、ねいるからは関わりを避けられてしまう。
また独りエッグの世界に挑むアイ。次のエッグの中から現れたのは、レオタード姿の鈴原南という少女だった。
戦いに挑むアイに、アカと裏アカは「ワンダーキラーを倒せ」と告げる。

  ――公式サイトのあらすじより

 

・「あなたは誰のために戦っているの? 本当は自分のためじゃない?」

  何のために戦うか、自分にとってのプライオリティについての話なんだよなあ。

 

 

方法6:第三話『裸のナイフ』より

いつものように地下の庭園でエッグを買い、帰路につこうとしたアイの前に突如現れた少女・川井リカ。
アイたちと同じくエッグの世界で戦うリカだが、初対面のアイにお金を貸してほしいと頼んできたり、勝手に家まで押しかけてきたりと、いきなりアイを振り回す。
誰にでも調子よく振る舞うリカに、ねいるは不信感をにじませるが、リカはアイの家に泊まるとまで言い始め……。

  ――公式サイトのあらすじより

 

花折峠の伝承:

 峠を越えて花売りに出掛けた娘の一人が、他の娘につき落されて谷川で命を落としたという。しかし、里に帰り着いた娘が、死んだ筈の娘が先に帰っていることに驚き、峠に引き返してみると、あたり一面に花首の折れた花々が散り敷かれていた。

 少女の死と再生のモチーフ。

・「忘れたくても忘れられない」

 リカは自殺した友人を救うために戦っているのだが、リカはその友人に自殺を救われているのである。

 

 

方法7:第四話『カラフル・ガールズ』より

リカが戦線を離脱したことで、みことまこを守りながら独り戦うことになってしまったアイ。
押され気味の戦況に挫けそうになるアイに、みことまこは協力を申し出る。
一方、別のエッグの世界では、アイたちと同じように戦う沢木桃恵の姿があった。
桃恵の凛々しさにほのかな恋心を抱くエッグの中の少女たち。
しかし少女たちの感情は、桃恵にとある過去の出来事を思い出させ……。

  ――公式サイトのあらすじより

 

・エッグキャラに「肩幅広いですね」って言われて傷ついている百恵が印象的。

・桃恵の夢世界である電車、特別編までみると初めから電車を降りるために作られたキャラなんだと思う。

・電車のモチーフにした場合は、『銀河鉄道の夜』から『輪るピングドラム』に至る系譜があるけれども、桃恵の場合は登場シーン以降は電車の中ではなく外でしか話が進まない。

・「はあ、疲れたぁ」とつぶやく桃恵、後からみると意味が変わってくる。

・「死の誘惑」というワードが初登場

 

 

方法8:セルフパロディ

 有り体に言うと、ワンエグは野島伸司セルフパロディ的側面が強い。

 先生と生徒の恋愛は『高校教師』だし、いじめや自殺は『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』だし、少年少女の連帯を描くことは『未成年』だ。

 特に関連が強そうな作品は、1999年の『リップスティック』だ。少年鑑別所を舞台にして、絵描きである職員(三上博史)と収監された少女(広末涼子)の絶対に結ばれない恋愛、家庭などに問題を抱える同室の少女たちによる連帯を描いている。なんといっても主人公の少女の名は、藍(アイ)である。

 そもそも野島伸司セルフパロディを好む作家なのだ。『フードファイト 香港死闘篇』では『家なき子』のキャラが複数登場するはちゃめちゃな作品だ。(『フードファイト 香港死闘篇』はすごく薄っぺらい香港マフィアを演じる筒井康隆が見られるのでファンは見よう。)

 野島はどうしてセルフパロディを繰り返すのか。それは、そのような方法でしか救えないものがあったのだと想像する。野島自身が作品の中で搾取してきた少女たちを救いたかったのではないだろうか、と。

 

 

方法9:第五話『笛を吹く少女』より

エッグをきっかけに出会い、友情を深めていくアイ・ねいる・リカ・桃恵の4人。
日々戦いに臨む4人の中でも、ねいるは人一倍多くの戦いに身を投じ、様々な思いを抱えた少女たちと出会ってきた。
物事を冷静に、論理的にとらえてしまうため、彼女たちの思いをうまく理解できずにいたねいる。
ある日、ねいるはリカ・桃恵と共にアイの家に遊びに行くことになるのだが……。

  ――公式サイトのあらすじより

 

・ねいるの夢世界は橋。特別編をみた後だと、「この世」と「あの世」をつなぐ間の存在なんだろうと納得する。

・四人の意見が食い違う。これがプライオリティということなのか。

 

 

方法10:第六話『パンチドランク・デー』より

戦いに慣れつつある4人の前で、ミテミヌフリの一部が突然「アンチ」へと姿を変える。
アンチが狙いを定めたのはエッグの中の少女ではなく、アイたちだった。
新たな敵の出現に苦戦する4人に、アカと裏アカはとある「お助けアイテム」を渡す。
エッグの世界での戦いが徐々に変化する中、現実世界ではアイの母・多恵が持ち掛けたある提案が、アイの心を大きく揺り動かす。

  ――公式サイトのあらすじより

 

・「私たちの最大の目的は、ワンダーエッグ・プライオリティ」

 ワンダーエッグって結局はどこの誰かもわからない自殺した少女なわけで、それをプライオリティの上位に置いてくるのだから、アイたちはプライオリティをエッグを割るたびに変えている。このプライオリティを変えていくこと自体が重要なのかもしれない。

・先生がいよいよ存在感を増してくる。この頃のアイは、夢の中では「見て見ぬ振りはしない」けど、現実では「目を合わせることもできない」のである。

・数珠を持って先生に会いに行くということは、見えないものを見に行った。目に見えないものとは、先生への恋心かな?

 

 

方法11:魔法少女ものとして

野島:見てますよ。『まどか☆マギカ』はバトルシーンがすごいね。サイケなアートアニメのようで、クオリティがすごく高いと思うよ。

[中略]

野島:僕もアニメの方に興味があるんです。世界に誇れる日本のエンタメはやはり実写ではなくアニメや漫画、ゲームカルチャーだし、ドラマに比べて制約も少ないし、異空間に飛んでみてもいいし。最近、アニメの若い監督たちと話す機会があったんだけど、すごく面白かったですよ。

  ――野島伸司×清水一幸P、話題作『百合だのかんだの』は時代の変化から生まれた

 

 野島伸司は『まどか☆マギカ』を見て本当のところは何を思ったのだろうか。おそらく「自身が携わってきたテレビドラマ」と「現在流行っているテレビアニメ」の親和性だろう。恋愛、家族、友人関係にトラウマを持つ少女たちの連帯と、彼女たちを搾取する社会システムに対する抵抗、作品が抱えているテーマには共通するところがある。まどマギにおいては、その少女たちの関係性が社会システムを打ち破る鍵になるのだが、野島伸司はその答えに満足しなかったのではないだろうか。まどマギを視聴済みのうえでワンエグを作ろうと思ったのだから。

 いったい野島はまどマギのどこに満足しなかったのだろうか。そのヒントはワンエグに「変身」が存在しないことにあるように思う。そもそもまどマギ魔法少女の「変身」の意味を変えてしまった作品である。既存の魔法少女ものでは成長の手段と描かれていた「変身」を、むしろ成長を止めてしまうゾンビへの「変身」として描いた。野島は、古典的な少女から女性への成長も、ましてやゾンビになって人間をやめてしまうことも良しとしなかったのだろう。少女は少女のまま、世界を変える方法を模索したのがワンエグなのだろう。

 

 

方法12:第七話『14才の放課後』より

リカの誕生日を祝うために集まったアイたち。
遅れてやってきたリカが「愚痴に付き合ってもらう」と取り出したのは、自分の父親と思われる5人の男性の写真だった。
母・千秋と交わした「中学にあがったらパパに会わせる」という約束が果たされず、父への思いと母への苛立ちを募らせ、悪態をつくリカ。
その態度をたしなめたねいると桃恵に、リカは怒りをぶつけてしまう。

  ――公式サイトのあらすじより

 

・可愛いリカ。

・お助けキャラによって疑似的な母親になる。

・「こっちが命のハグだろ」富野節っぽい。

・「今会いたいんだ、今」「でも、今じゃない」

 

 

方法13:親と娘のオフィーリア

「親に対して、ジグソー・パズルを残すとは、あきれかえった娘だ。もうきれいさっぱり忘れてやる。小娘のくせになまいきだ」。私は、パズルの断片を組立てあぐねると、やたらと娘を病気にしたてたり、ヒステリーときめつけたり、我が身の不勉強を恥じて劣等感にさいなまれたりした。

  ――井亀千恵子『アルゴノオト』

 

 過去の野島作品と比較しても母親に対する同情的な視線はワンエグの特徴の一つだろう。アイとリカの母子家庭は言うに及ばずだが、寿とねいるの関係もよく考えると母娘だ。親の心子知らずではなく、子の心親知らず。母の知らないところで娘が思い悩んでいる姿が繰り返し描かれる。萩尾望都山岸凉子といった「花の二十四年組」の少女漫画では母親は娘を支配するものとして描かれがちだが、娘の気持ちがわからず右往左往するワンエグの母親たちもリアルに感じる。

 

「子供産んだんならなあ、女やめて母親になれよ!」

  ――野島伸司脚本『リップティック』第12話より

 

 上記は再婚した男が自分の娘をレイプしていたことを知りながら見過ごし、娘を自殺させた母親に対して浴びせられたセリフである。90年代野島伸司のどうしようもなく袋小路に行き詰った母娘関係と打って変わって、ワンエグではもちろんすれ違いはあるにしても、母娘がお互いを理解しあう前向きな物語になっている。個人的には、子供を産んだからと言って、いきなり女をやめて母親になれと怒鳴られてもツライのは理解できるので、これぐらいの距離感が見ていて気持ちいい。 

 

 

方法14:第九話『誰も知らない物語』より

ある日、会社に住んでいるというねいるの元に遊びに行くことになったアイたち。
ねいるはそこで、阿波野寿という少女を紹介する。
彼女はとある実験をきっかけに永遠に眠ったままになっていた。
そんな寿の状態を認められずにいるねいるだったが、そんな彼女を愕然とさせたのは、エッグから現れた寿の姿だった。
寿がねいるに託した最後の「願い」を巡り、4人はすれ違い……。

  ――公式サイトのあらすじより

 

・あどけない悲しみ?

・ 「二人ならファンタジー

 

 

方法15:第十話『告白』より

アカと裏アカがねいるの秘書と共にいる場面を目撃したリカは、3人の関係性について詰め寄る。
そこで明かされた彼らのとある秘密。さらにはそこへ、桃恵から「男子に告白され、デートをした」との連絡が入る。
突如舞い込んできた恋バナに興奮気味のアイたちだが、桃恵はなぜか浮かない様子だった。
そして日常の裏では、エッグの世界での戦いが激しさを増していき……。

  ――公式サイトのあらすじより

 

 ・野島的にはよくある展開。

・嘔吐する桃恵。

 

 

方法16:第十一話『おとなのこども』より

桃恵の前に突然現れ生死を問い、パニックの命を奪った異形のモノ「ハイフン」。
エッグの世界の変化は、リカの元にも訪れ……。
一方、桃恵やリカに起きている事態を知らないまま、アイは地下の庭園に建つ屋敷に足を踏み入れていた。
膨大な資料があふれる部屋の中で裏アカと遭遇したアイ。
Jプラティの創始者で、かつて科学者だったという裏アカは、とある昔話を語る。

  ――公式サイトのあらすじより

 

 ・裏アカの主人公感がすごい。親友と好きな女性の間にできた娘に欲情する男、業が深すぎる。

・「見ないふりをしないで」

 

方法17:独身者機械による

これぞまさに独身者機械の核心をなす秘密、つまり愛のない快楽である。

  ――ミシェル・カルージュ『《新訳》独身者機械』 

 

 裏アカは90年代の野島ドラマによく出てくる身勝手な男性キャラの集大成だと思う。一連の事件をフリルの問題だと考えたいようだけれど、アカ夫婦に嫉妬していたのは裏アカだし、ヒマリに欲情していたのも裏アカだ。そのことに、気が付かない愚かしさが素晴らしい。

 

人造人間に嘔吐が禁じられているのは、ほかの女性に屈辱を味わわせたくないなどという、訳のわからない心遣いからではない。独身者機械において、少なくともデュシャンカフカの独身機械において嘔吐は、エロティックなプロセスの最後に起こることなのだから。実は、ハダリーはエワルドを拒んでいるのだ。

  ――ミシェル・カルージュ『《新訳》独身者機械』

 

 ワンエグはド直球で独身者機械なので特に付け加えることがないのだけれど、新島進によると『輪るピングドラム』も独身者機械であるそうだ。ん、ヒマリ……陽毬?

 

方法18:第十二話『負けざる戦士』より

パニックと万年に起こった悲劇を聞いたアイは、エッグの世界でのアンチとの戦いでも、レオンを出さずに応戦しようとしていた。
エッグを割ることもままならず劣勢に立つアイ。
その様子をモニターしていたアカは、アイに代わってレオンを喚び出し、ミッションの遂行が最優先だと指示する。
葛藤しながらもエッグを割るアイだが、エッグから現れた者、そしてワンダーキラーは……。

  ――公式サイトのあらすじより

 

・別の世界線の設定はいらなかったという意見もあるだろうけれど、この話を見ると必要な設定だったことがわかる。第一話で「親友って永遠でしょ」って言葉があるけれど、小糸ちゃんは明らかに打算で人間関係を組み立てている人なので永遠ではない。永遠じゃないから親友ではないかと言えばそんなこともない。別世界のアイが小糸ちゃんがいなかったことで自殺していることからもわかる通り、アイが小糸ちゃんに救われたことは事実だし、小糸ちゃんの本性が嫌な奴だったとしても過去に親友だったことの価値は変わらない。

・別世界のアイは、自分の命である瞳である片方を死にかけているアイに分け与えた。これってピンドラですよね。

 

 

方法19:特別編『私のプライオリティ』より

エッグの世界でのミッションをクリアし、現実世界へと戻ってきたアイ。
そんなアイにペットのアダムを託したねいるは、その日を境に連絡が取れなくなってしまう。
ねいるを心配したアイは、田辺のもとを訪れるが……。
沢木から明かされる小糸の自殺の真相、ミッションクリアを経て、少し変わってしまった世界に戸惑うアイ、リカ、桃恵。
様々な思いが交錯する中、アイは――。

  ――公式サイトのあらすじより

 

 ・アイにとってのプライオリティは時と場合によって変わる。小糸ちゃんだったり先生だったりエッグキャラだったりお母さんだったりする。それは寿やお母さんの言う「一度しかない人生を楽しんで」=カルぺ・ディエム(その日を摘め)につながる考え方だ。全力応援しまーす。

 

 

方法20:じゃあ教えてくれよ、この仕組みの深さを破壊する方法を

 

 エロスの戦士になることは何だったのか。それは、アイのように時々でプライオリティを変えつつ戦い続けることだと考える。リカや桃恵がフリルとその使徒たちに敗北したのはなぜか。それは彫像の女の子を生き返らせてプライオリティを失ったからだ。アイが小糸ちゃんというプライオリティを失っても、ねいるというプライオリティを追い続けて戦うことができる。これが負けざる戦士の真相だ。

 ところで、1997年『少女革命ウテナ』でトラウマを抱えた少女同士の連帯とそれを搾取する大人を描いた幾原邦彦とも比べてみたい。『少女革命ウテナ』の時点では、少女たちを搾取する社会システムからの逃走を訴えた。しかし、劇場版でのウテナとアンシーの逃避行は、先に待ち受ける荒野を見ると前途多難である。それから15年近く経った2011年『輪るピングドラム』では、社会システムの外側に逃避することは不可能になっている。環状線をぐるぐると回るだけで、どこか別の場所に行くことはできない。できることは路線変更をすることだけだが、そのためにはピングドラム=林檎を二つに分け合う必要がある。これは誰かの自己犠牲を必要としている点で少し無理がある。

 2019年『さらざんまい』は、ミサンガに代表される少年同士のつながりがテーマだ。「つながっても、見失っても。手放すな、欲望は君の命だ。」つながりたいと欲望することが、逃避でも自己犠牲でもない社会システムへの抵抗になる。『さらざんまい』ではアニメが終わった後の主人公たちの人生が映し出される。アニメが放送終了した後も主人公たちは何度も何度もつながりを絶たれそうになる。それでも、つながりたいからつなぎなおす。だから、『さらざんまい』は一過性の解決を示したものではない。

 ワンエグも同様である。さらざんまいの「つながりたい」に相当するのが、ワンエグの「会いたい」で「プライオリティ」である。アイが「プライオリティ」を追い求める限りは負けざる戦士であるし、いつかフリルも救ってしまうだろう。めでたしめでたし

 

 

――おわり――

 

※参考図書、追加しておきます。